「道義的責任」を強調していることは明らか

しかしながら、随所にほころびが出てきた。もともと政府の協力としては、基金運営のための事務経費の支出が想定されていたが、やがて慰安婦に対する「医療・福祉事業」が政府拠出で行われるようになったのだ。換言すれば、純然たる民間募金ではなく、国家補償との混合のような形に変容させられていったのだ。

かつて条約局長を務め、日韓の厳しい条約交渉にも臨んできた故松永信雄元次官はこうしたアジア女性基金解決方式に懸念を隠さなかったと伝えられている。戦後処理の一環として、14年にも及んだ長く激しい交渉を経て合意に達し、未来に向かって法的安定性を確保したと考えていた当事者からすれば、当然すぎるほどの問題意識であったろう。

だが、外務省、そして日本政府幹部は、韓国との間で目の前の大きな懸案を解決することに汲々とし、国際世論の圧力に抗することは無理筋とあきらめ、解決を急いだのである。

「女性の尊厳を損なった人道犯罪」「法的責任は解決済みでも道義的責任はある」との言説は日本の責任を追及する側が唱え続けたお題目だったが、いつしか外務省の人間までそれを口にし出して、自らの対応を正当化する口実として使うようになった。例えば、「慰安婦問題に対する日本政府のこれまでの施策」と題する外務省ホームページに掲載されている資料を見ても、「道義的責任」を強調していることは明らかだ。

「率先して謝罪し、範を垂れるべき」という理想主義

だが、いったん「道義的責任」を認めると際限がなくなることも確かだろう。

戦時中の行為についてこうした議論を持ち出せば、広島・長崎の原爆投下や東京大空襲はどうなるのかとの疑問を提起する日本人も出てこよう。

しかし、外務省にあっては、「植民地支配」「女性」「強制連行」「売春」というキーワードをちらつかされた途端に、頭を垂れて観念してしまい、粘り強く説明、反論していこうとの動きなど殆ど雲散霧消してしまったと言って過言ではない。むしろ、彼らの間でしばしば展開されてきた議論は、「道徳的高み(モラル・ハイグラウンド)に立つ」という発想だ。国際慣行を見れば、他の国はなかなか自国の行為について謝罪しようとしないが、平和憲法を掲げる日本のような国は率先して謝罪し、範を垂れるべきとの理想主義的考えであった。

このような理屈を同僚のそれぞれがどれだけ唱えようが、個人的考えにとどまるのであれば私の関知するところではない。だが、そうした議論が国家としての資金拠出や個人の財政負担を強いるのであれば、全く次元が異なる話になる。

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実際、当時の外務省では、アジア女性基金の資金源とすべく、すべての省員に対して奉加帳を回し、募金を求めていた。私の等級では一人10万円ほどの寄付が求められていた。しかしながら、この問題の解決方式に全く納得できなかった私は、一切の寄付を見送ることとした。