「沼田」への強いこだわり

昌幸は真田幸綱の三男だったので、最初は武田氏の元へ人質に出され、武田親類衆の武藤家の養子になった。ところが、天正13年(1575)の長篠の合戦で幸綱の嫡男の信綱と次男の昌輝がともに戦死してしまったので、真田家に戻って家督を継いだ。

元来、真田氏の本拠地は信濃の小県ちいさがた郡だが、兄の信綱は上野(群馬県)に進出していた。昌幸はそれを継いだうえで、天正10年(1580)にやはり上野の沼田城(群馬県沼田市)を攻略した。要するに、「沼田」は昌幸が「切り取ったもの」で、彼にはそれを守り抜く自負があったのだが、この「沼田」はその後、長く「火種」としてくすぶり続ける。

昌幸が沼田を攻略した直後、織田信長が武田氏を滅ぼすと、上野は信長の重臣の滝川一益に与えられたため、昌幸は沼田を手放さなければならなくなった。ところが、それから3カ月も経たない天正10年6月2日、本能寺の変が起きると、信長による旧武田領の知行割も崩壊。南から家康、東から北条氏、北から上杉氏が攻め入って、滝川一益は本拠地の伊勢(三重県東部)に逃げ帰ってしまう。

昌幸はというと、まずは上野から信濃に侵攻してきた北条氏に出仕し、沼田を回復したのち、手のひらを返して家康についた。ところが、そこで沼田が「火種」になる事件が起きるのである。

沼田城址(写真=Abasaa/PD-self/Wikimedia Commons

家康が犯した重大なミス

天正10年10月末、家康と北条氏は和睦を締結し、家康の次女のとく姫が北条氏直に嫁ぐとともに、北条氏の勢力下にあった甲斐(山梨県)の都留郡、信濃の佐久郡と、徳川氏の従属下にある真田氏の沼田領と吾妻領が交換されることになった。

信濃は徳川、上野は北条というかたちにすっきりまとめようとしたのだが、昌幸は、沼田領も吾妻領も自分で切り取ったものだと主張し、いくら家康が勧告しても、決して応じない。

この和睦の際の領土協定では、交換した領土は「手柄次第」とされ、それぞれが自分で統治を実現することになっていたので、北条氏はこののち、たびたび沼田城を攻撃したが、昌幸側は耐え抜いた。

その後、家康は重大なミスを犯している。天正11年(1583)、昌幸は本拠地の信濃国小県郡に上田城(長野県上田市)を築いたが、家康はこの城を上杉氏に対する最前線として機能させるため、築城を全面的に支援した。ところが、天正13年(1585)に家康からあらためて沼田領と吾妻領の引き渡しを求められた昌幸は、ふたたび手のひらを返し、今度は上杉景勝についてしまったのである。

さすがに堪忍袋の緒が切れた家康は、この年の8月に真田攻めを決意。鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らを小県郡に向かわせるが、自分たちが築いてやった上田城を落とせず、逆に城から打って出た真田勢に大敗してしまう(第一次上田合戦)。