カフェイン、糖質、動物性たんぱく質…排除の対象はいくらでもある
喫煙スペースが公共空間から次々となくなり、飲酒の「目安量」が国からはっきり示されるような時代は、酒やタバコを楽しまない人からすれば――あるいは、むしろそういったものを楽しんでいる人を前々から疎ましく感じていた人からすれば――「いいぞもっとやれ」と思えるのかもしれない。
だが、いつか気づくことになる。「わるいけど、たのしいもの」を積極的に排除していく社会の流れは、やがて自分の楽しんでいるものさえもその射程に入れてしまうことを。
タバコやアルコールが根絶やしにされれば、次はカフェインになり、それが終われば次は糖質や動物性たんぱく質になる。嗜好品や喫食物を健康面や倫理面を理由に「浄化」したらそれで終わりではない。次はポルノや暴力的な表現が含まれるエンタメやインターネットにそのターゲットが移っていく。「ただそれを享受する個人が楽しくて快い気持ちになるだけで、健康や精神や社会秩序には益がないどころか害があるもの」は、いずれも「健全な社会」をみんなで目指すという社会正義の前に、少しずつその居場所を失っていく。
全体主義や独裁主義が「民主主義的に」支持された理由がわかる
自分には関係がないものだから(むしろ消えてくれて清々するから)と、タバコやアルコールの苦境を内心では喜びをかみしめながら眺めている人は少なくない。だがその論理の導火線は、私たちの大切にしている趣味や嗜好にもしっかりつながっている。
リベラルや保守といった党派性にかかわらず、人びとは「権威主義的パターナリズム」が自分たちの側についてくれているときの頼もしさや心強さや安心感や高揚感にひたりすぎてしまった。それを他人に振りかざす快感に夢中になるあまり、それが自分たちに向かってくるときの恐ろしさをすっかり忘れてしまった。
歴史を振り返ると、なぜ近代以降の人間社会で全体主義や独裁主義がしばしば「民主主義的に」支持されたのか。いまならその理由がよくわかる。