私たちがコロナで失った「目には見えない重大な代償」

私たちは「ウィズ・コロナ」と呼ばれた3年間によって、さまざまな犠牲を払った。

「大切な人(≒主として高齢者)の命を守るために」という号令のもと、若者たちにとっては青春の貴重な3年という時間を、商売人にとっては店の存続にかかわる商機を失った。経済的にも機会的にも文化的にも人間関係的にも、さまざまな損失があった。

だが、私たちはもうひとつ、目には見えない重大な代償を支払った。

すなわち「身体や健康にはわるいけど、個人としてはたのしくて快いもの」――を、心の底から楽しむことができなくなってしまったことだ。

哀しいことに、その「身体や健康にはわるいけど、個人としてはたのしくて快いもの」は、私たちの暮らしや人生に彩りを与えてくれるものの大半が多かれ少なかれ該当していた。

私たちは「倫理的でも健康的でも道徳的でもないが(個人の自由によって擁護されている)楽しいこと」に対して、自分がそれを享受してもかつてほど純粋に「楽しい」とは思えなくなった。むしろ「社会や他者に迷惑をかけている」という“後ろめたさ”が脳裏をよぎるようになってしまった。また他人がそうした事柄を楽しんでいる様子を見ると「こっちは社会や他人のために協力しているのに何も考えずに“タダ乗り”しやがって」という怒りに似た暗い感情が湧くようになってしまった。

「自分には関係ないから、ご自由にどうぞ」ではなくなった

「不健康だけど、不必要だけど、たのしいこと」を楽しんでいる者は、「まあ自分には関係ないから、ご自由にどうぞ」ではなく「社会全体に害悪をまき散らす者」として見なされるようになった。元からタバコや飲酒に悪感情を持っていた人は少なくなかったが、だからといって積極的に糾弾するわけにもいかなかった。しかし今後は違う。「公共・秩序に背く社会の敵(ただしくない側)」という大義名分が付与される。

タバコ呑みが吐き出す煙にも酒飲みの繰り出す騒音にもフラストレーションを溜め、さんざん迷惑をかけられてきたと考える人からすれば「ようやくアイツらにただしく社会的制裁が下される日が来たか!」と快哉かいさいを叫ぶことになる。

公園内の喫煙スポット
写真=iStock.com/years
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私たちはこれから、市民社会における「わるいけど、たのしいもの」を楽しむ自由を守るよりも、「ただしい側のメンバーである」ことを選んでしまう。