泣きながら和歌を詠む小野好古
この歌は実に多くのテクニックを駆使している。「玉櫛笥」は螺鈿などを散りばめ美しく飾ったお化粧道具を入れる函で、「蓋」があるので「ふたとせ」の枕詞であると同時に、「二」に「蓋」を、「君が身」の「み」に、人を表す「身」と道具を入れる函の「身」を、「あけ」は、「朱」と蓋を「開け」を、「あはし」に(蓋と身が)「合う」と「会う」をそれぞれ掛けてある。
「玉櫛笥」「蓋」「身」「開け」は縁語でもある。掛詞や縁語などゴテゴテ飾り立てて品がない歌にも見えるが、言い難いことを何とかソフトに伝えようとした公忠の気遣いがうかがわれるではないか。
『後撰和歌集』のみ好古の返しがある。泣きながら詠んだのか、
(新年になっても朱色の衣のままで年を経るとは、私はもうだめになりそうです)
小野好古(『後撰和歌集』雑一)
と返した。「私はもう死にそうだ」と落胆の様子が浮かぶ。
好古よ、そう落ち込むなよ。そなたは武人だろう。その上、昨年正月に正五位下になったばかりではないか。たった一年で四位を望むのは無理というものだ。涙を流した翌年正月には念願の従四位下に昇格している。最終官位は従三位参議であった。
ノンキャリア組は女房に頭を下げる
昇格には何の客観的基準もない。天皇を頂点とする上流貴族たちの思惑一つで決まる。権力者に袖の下を贈るか、おべっかを使うか、哀願するかだ。紫式部の父藤原為時は一編の漢詩で天皇を動かし越前守を勝ち取った。
紫式部が日記に「数にしもあらぬ(物の数ではない)五位」とするその五位以下の人たち。親の七光に浴する家柄ではない彼らがねらう旨味のあるポストは、地方の国守だ。紫式部の伯父で、従四位下摂津(大阪府北西部と兵庫県南東部)守で終わった藤原為頼は、生まれた孫が女子だと聞いて、
(天皇の皇后候補か、そうでなければ収入の多い国の若い国守の妻の候補になれよ)
藤原為頼(『為頼朝臣集』)
と祝福した。美しくかわいい子だったので祖父の欲望が丸出しの歌である。しかし、為頼も子供たちも四位あるいは五位で、主として国司の最上席の受領だから、后候補は高嶺の花。せいぜい天皇家や上流貴族のメイド的な女房だ。
受領の妻なら見込みなしとはしないが、高収入で若い男となると難しい。若い受領の多くは権門上流貴族の子弟だからだ。彼らは中央でポストを持ち兼任で受領を務める。『蜻蛉日記』作者に求婚した藤原兼家は兵衛佐だったが、兼任で紀伊権介を務めていたし、藤原時平、藤原兼輔、藤原実頼、藤原道長など、皆このタイプだ。
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正二位右大臣藤原不比等の子の宇合などは常陸守として実際に赴任している。実入りのいい大和国(奈良県)などの大国や、山城国(京都府)などの上国の「よき国」は、上流貴族の子弟で占められ、中・下流貴族は残りの安房国(千葉県南部)などの中国、壱岐国(長崎県の一部)などの下国の守にしかなれないのだ。