為頼は「若き受領」と「若き」とこだわっているのは、高齢の受領と結婚する例が多かったからだろう。紫式部は二十歳程年上の男と結婚、結婚三年目に夫は死亡してパトロンを失っている。これでは黄落の晩年になる可能性が大きい。
国守という人気職業も、ポストは権守を含めて九十八人分しかなく、激烈な就職レースが展開される。頭も白くなったおじさんが任官申請文書を持って、あちこちの女房の局に寄っては差し出して自己推薦をし、「どうぞ宜しく申し上げてください」などと頼んで回る様子を、清少納言は書いている。
除目の頃など、宮中の辺りは実に愉快だ。任官申請の文書を持って歩く四位五位で若々しく感じの良い人は頼もしく見えるが、老いて頭の白い人が、女房の局に寄っては何やかや自分の置かれている事情を話して、任官の助けを頼み、自分が立派な人物であることをいい気になって話す姿を、若い女房たちが真似をして笑うのを、ご本人は知るはずがない。清少納言(『枕草子』「正月一日は」段)
ノンキャリアたちをあざ笑う清少納言
男の「生きる」姿の哀れさに、胸痛む思いがする。それなのに嘲笑の対象にするとは。自分たちの父親もそうではなかったのか。清少納言の父元輔こそ、頭が白くなりながら頼み込む一人ではないか。元輔は、
(任官発表の季節になると、毎年毎年絶えない涙が流れてきて、溜まりに溜まって、涙の淵となる。その淵に深く深く身を沈めっぱなしになることよ)
清原元輔(『拾遺和歌集』雑上・『元輔集』)
と涙を流して歌い、右近という女房に訴嘆し、ようやく六十七歳で周防(山口県東部)守、八十歳で肥後(熊本県)守になっている。
人の死が、ポストが空いたという密かな喜びに…
元輔は交際術が下手だったらしい。右大将が続けて子を産ませた時に歌を頼まれ、
と素っ気なく詠む。生まれた子がかわいそう。親は『元輔集』伝本により、「右大将」「右大将源朝臣」と異なる。元輔の時代に右大将になった源朝臣はいないし、単に右大将では分からないが、誰であれ、「珍しげなき」と言われた親は、渋い顔をしただろう。
右大将といえば上流貴族垂涎の職であり、そのような権力者に依頼されたのに「珍しげなき」とは何たること。それだから高齢になるまで、これは、というポストを得られなかったのだ。
ポストレスの社会では、人の死もポストが空いたという密かな喜びを伴う。「備後(広島県東部)守が死んだ。その後任は是非私めに」と元輔は、
(誰がまた己の高齢になったことを顧みず、遠い吉備の中山《岡山市吉備津》を越えて備後守として赴任しようというのか)
清原元輔(『元輔集』)
と歌う。備後国は大国なので、元輔も吉備の中山を越えたい一人だったのか。それとも生きるための醜い欲望を慨嘆したのか。