この逆転劇が展開された頃、兼家の妻は『蜻蛉日記』に、「正月の人事ということで、夫は例年より少しの暇もなく、バタバタしているようです」と書き、「この月は頻繁に訪れてきて、何だか不思議だわ」と首をかしげる。
思わしくない人事に疲れきり、ストレスを癒すための憩いの場が作者の許だったのだ。傷を負った戦士は、疲れきった体を投げだして美女の熱い胸に眠る。妻はそれを理解していなかった。元気を取り戻すと男は、憩いの場を離れ、戦いの場に出て行き、女は男の夜離れを託つ。
息子の出世のために和歌を代筆する母親
このような中で、日記作者と藤原兼家の間の子の道綱も昇進を謀らねばならない。道綱は大納言にはなったが、昇進競争相手の藤原実資に「一文不通の人(何も知らない奴)」「四十代になっても自分の名前に使われている漢字しか読めない」と罵倒されたり、一、二カ月でもいいから大臣にしてくれと、異母弟の藤原道長に懇願したりしている。
道綱が大納言になるまで、公私共に母親のバックアップがあったに違いない。例えば花山天皇主催の晴れの内裏歌合に正五位下道綱も列席、歌を出すことになった。その歌の歌題は「山里を眺める女と鳴くほととぎす」を画いた絵で、
(都人は寝ないでほととぎすの鳴く声を聞こうとしているだろうが、今、この山辺を飛んで、鳴きながら都の方へ行くようだ)
藤原道綱の母(『拾遺和歌集』夏・『蜻蛉日記』巻末歌集 寛和二年内裏歌合)
と、山里と都を結び付ける絶妙な歌を道綱は提出したが、実は母の代作であった。
上着の色を見れば身分も、給料も分かる
上流貴族より下でも、四位と五位は正式に貴族の範疇に入る。それより下の、律令制度下では貴族ではない六位の人々の昇進をめぐっての哀歓の歌が歌壇を賑わす。
最も分かりやすい例として勅撰和歌集歌人を挙げてみよう。『古今和歌集』撰者の凡河内躬恒、紀貫之、紀友則、壬生忠岑、『後撰和歌集』撰者の源順・大中臣能宣・清原元輔・坂上望城・紀時文の九名だ。
この名誉ある文化功労者は貴族かと尋ねると、皆さんはどう答えるだろうか。多くの人は貴族と答えるだろう。しかしそれは、庶民に比しての広義の貴族だ。法的には貴族ではない。彼らを最終位階順に上着の袍の色を含めて、高位から順に並べてみよう(図表)。