彰子の妹は女児を産んでしまい、父・道長に冷淡に扱われた
相府(道長)は、出産祝いにきた公卿や、妍子の宮に奉仕している殿人などとあわない。「不悦の気色甚だ露わなり」。女をお産みになったことによるか。しかし、男女は「天の為すところ」である。人の力ではどうしょうもないではないか。
父親に冷淡にされた産婦妍子の気持ちは、いかばかりであったろう。実資ならずとも、天がおこなうことであり、人の力ではどうしょうもあるまい。
このように、天皇に入内させた娘たちには、男子が望まれた。しかし、貴族層の妻には、まず女子が望まれた。上層貴族は、入内させる娘が必要だったからである。また、中下級貴族では、政治力のある男性や息子を婿に取ることによって、親戚関係を結び、自分自身や、親族の昇級をはかるためである。
道長の正妻・倫子は男女の産み分けを完璧にやりとげた
それを見事なまでにやりとげたのは、道長の妻倫子である。まず、最初に娘彰子を、2番目に頼通を産んでいる。一姫二太郎である。道長は、さほど能力ある政治家ではなかった、とされることが多い。それでも、権勢を手中にできたのは、姉である一条天皇の母詮子が、一条天皇にごり押しをしたからであり、また、娘たちがそれぞれの天皇に入内し、しかも彰子が二人の親王を産んだからである。つまり、妻が女子を産み、娘が男子を産んでくれたおかげである。
頼通の妻隆姫には子どもができなかった。隆姫は子ども祈願のために、多くの寺社参りをしている。1016(長和5)年6月23日、隆姫は三井寺にお参りしている。
隆姫22歳、結婚して7年のことである。「子ども祈願」ではなく、「女子祈願」と明記してある。まずは女子が欲しい、摂関家の新妻としては、切実な願いだったのであろう。翌年には、長谷観音に参詣している。長谷寺は、当時から子授け観音として霊験あらたかで、多くの参詣があった。(『蜻蛉日記』を書いた兼家の妻)道綱母もいっている。