医療のない1000年前、出産で死亡する母子は貴族でも多かった
現在、日本では、出産で亡くなる産婦も新生児も、きわめて少ない。世界でも、最も少ない国の一つである。しかし、前近代社会では、お産で死亡する女性も、赤ん坊もたいへん多かった。
期待はずれでおもしろくないもの、生まれた赤ん坊が亡くなってしまった出産場所、これも『枕草子』である。
当時、10数年に一度くらい赤斑瘡、いまでいう麻疹が大流行する。一度罹ると免疫になるが、産婦が罹ると、母子ともに亡くなることが多かった。道長と倫子の末っ子嬉子は、1025(万寿2)年8月3日、姉彰子が産んだ東宮敦良親王との子ども親仁親王(のちの後冷泉天皇)を無事出産するものの、5日には亡くなっている。19歳の若さだった。
この年、赤斑瘡が大流行していた。実資の日記をみると、7月ころから大流行し始め、以前罹らなかった人も含め、30歳以下の上中下の都人が煩っており、実資の娘も、養子5人も、若い人ほとんど全員が煩ったようである。8月27日には、道長の息子長家の妻斉信女が、妊娠7カ月で産気づき、子どもを出産したが、子どもは亡くなる。当時、7カ月では、育たない。2日後、産婦も亡くなってしまう。病気で体力をなくしており、そこで出産をすると、回復できぬまま亡くなるのであろう。
藤原公任の娘は14歳から25歳までに8回も妊娠した
産死は、病気のためだけではなかった。上層貴族の女子は、若いときに結婚することが多くなる。結婚すれば、子どもが期待され、若年で出産することになる。教通の妻で公任の娘は、13歳で結婚した。1014(長和3)年、15歳で長女生子を産む。15歳は数え年だから、今なら14歳である。その後、17歳で次女真子、18歳で流産、19歳で長男信家、22歳で次男通基と歓子、23歳で三男信長、25歳で四男静覚を出産する。10年間に、じつに8回も妊娠したことになる。
しかも、この間にもう1人か2人子どもがいたともいわれている。毎年、妊娠・出産をしていたことになろう。考えただけで体力の回復は難しい気がする(実際、公任の娘は静覚を出産後に亡くなっている)。しかし、孕まねばならなかった。産むことが女性にとっていちばん大切な仕事になっていたのだから。若年結婚と多産、そして産死。このような貴族女性は、たいへん多かったのである。