「最強の駆逐戦車」で挽回しようとしたけれど…
アメリカ軍が万全の邀撃態勢をととのえたのは無駄ではなかった。三月八日から九日にかけてのドイツ軍の反撃は微弱なものでしかなかったけれど、十日になって、最新鋭の駆逐戦車「猟虎(ヤークトティーガー)」や「猟豹(ヤークトパンター)」を装備した中隊を含む装甲部隊に支援された独第六七軍団が、本格的に橋頭堡に圧力をかけてきたのである。とはいえ、この軍団の戦力はそれまでの退却戦闘で減衰していたから、さほどの成果は上げられなかった。
典型的な責任転嫁…4人の将校が即日銃殺刑に
一九四五年三月九日、ヒトラーは「西方移動軍事裁判所」(第二次世界大戦末期に設置された、戦線後背部を巡回し、即決で裁きを下す機関)に命じ、ルーデンドルフ橋失陥に責任があるとされた将校五名を軍法会議にかけさせた。
彼らは「怯懦」と「軍人服務義務違反」で死刑を宣告され、うち四名は即刻銃殺された。そのなかには、ヨハン・シェラー少佐も含まれていた。
典型的な「生け贄の羊(スケープゴート)」への責任転嫁であったけれども、反面、こうした不法は、ドイツ軍にとってレーマーゲンの敗北がいかに致命的かつ衝撃的であったかを明示しているともいえよう。
このアメリカ軍の成功は、一見僥倖のたまものであるかにみえるが、もちろんそうではない。マネジメント重視で育てられた米軍将校のなかにも、臨機応変の指揮という要素は残されており、それが予想外の勝利をもたらしたのである。
レーマーゲンの第九機甲師団B戦闘団は、米軍のドクトリンとは裏腹に、詭動(マヌーヴァー)の重要性を証明したのであった。