「賢い」「バカ」は人間社会の尺度にすぎない

かく言う私は、無知な男である。だからといって自分の知識のなさを隠そうなどとはつゆほども思わない。心理学や経済の専門家などと雑誌で対談して、相手の喋っていることがよく理解できず、「先生の話していること、よくわかんないよ」と言ったりすることもあるくらいだ。

しかし、「賢い人」と「バカな人」。どちらになりたいかとかれたら、私は、世間でいう賢い人になるくらいなら、世間的にはバカなほうがいい。

不思議なことに、みなが賢い人を志向しているのなら、この社会はもっと賢いものになるはずだ。なのに、実際はそうはなっていないではないか。

そもそも、賢いだの、バカだのといっても、それはあくまで人間社会における話だ。動物や昆虫の世界には賢さやバカといった基準は存在しない。彼らは自然の理にかなった生き方を本能的にしているだけである。

自然の法則を無視し、迷惑をかけている人間は、自然から見れば、まったく賢くはないだろう。

知識は最低限でいい

世間でいう賢さとは、ちょっと人より知識があったり、お金儲けができたりする程度のものにすぎない。

人が知識を求める理由の1つは、それが生きることに確信を与えてくれそうに感じるからである。その証拠に、たくさんの知識で武装した人は、たいてい揺るぎない自信を持って自分の意見を述べ、違う見解を持った人が目の前に現れると途端に攻撃モードになったりする。

私が知識にこだわりを持たないのは、そういう根拠の希薄な、いじましい確信を抱きたくないからでもある。

それよりも、生の実感から生まれる知恵さえあれば、知識は最低限でいいと思っている。知識は定まったものを追求するが、感覚や経験を通して身につけた知恵は、反対に定まらぬものをとらえるのだ。

この世界は絶え間なく変改してやまない。定まらず常に動いているものを感覚でとらえ、素早く的確に対応していく元となるのが知恵である。

知識だけでは、次々とやってくる変化の波に吞み込まれてしまう。だが、知恵はどんな大きな波であろうと、それを巧みに乗りこなすための恰好の道具になりうるのである。