庶民には手が出せない
高石は、当時西洋料理店として有名だった三田の「東洋軒」にいた1921年、赤坂離宮で開かれた皇太子、のちの昭和天皇が渡欧する歓送午餐会で出されたフォアグラのクリームコロッケに感動した経験があったのです。高石はこのとき、庶民が食べ慣れたコロッケと全然違うことに驚いています。
メニュー提案の際も、レストランでコロッケを出すことに難色を示した重役がいたそうです。それは、この頃すでにジャガイモのコロッケがポピュラーになっていたからです。
『にっぽん洋食物語大全』(小菅桂子、ちくま文庫、2017年)によれば、ジャガイモのコロッケを人気にしたのは、庶民が通える店でした。現存する店では、大正時代に開業した、横浜市鶴見の洋風揚げもの店「改良軒」や、1927年に東銀座で開業した「チョウシ屋」があります。
チョウシ屋の創業者、阿部清六は、その前は「長楽軒」という洋食店で働いていて、クリームコロッケを出していたそうです。しかし、庶民には手が出ない。そこで、ホワイトソースをジャガイモに替えて売り出し、人気になりました。コロッケなら残った肉やラードを使える、と全国の肉屋に広がっていったのが、現在も親しまれる肉屋のコロッケです。
コロッケ伝来の謎
実はコロッケがどのように日本に入ってきたかは、はっきりしていません。
日本エスコフィエ協会のウェブサイトによれば、クリームコロッケについては、日本の西洋料理のルーツをつくったといえるフランスの有名シェフ、エスコフィエのレシピにあるそうです。
オーギュスト・エスコフィエは、19世紀後半から20世紀にかけて活躍し、フランス料理とその厨房を、近代化したことで知られるフランス料理の巨人です。これまで3度もテレビドラマ化されている『天皇の料理番』(杉森久英、集英社文庫、1982年)で有名になった、秋山徳蔵が宮内省に呼ばれたきっかけは、エスコフィエが指揮するホテルリッツの厨房でも働いたことでした。
一方で、ポテトコロッケは、ヨーロッパ各国にあります。ポルトガルやイギリスには、ジャガイモと魚などを使ったコロッケがあります。日本の西洋料理界を支える料理人を輩出した日本郵船の定期航路の厨房には、イギリス人も多かったので、彼らを経由してジャガイモのコロッケが伝わった可能性もあります。
そして、チョウシ屋の阿部の発想がオリジナルだったとすれば、思いつきでジャガイモを入れる発想もあり得ます。レシピは必ずしも誰かから学んで覚えるだけでなく、自分が思いついた新しい料理を誰かが始めることはよくあります。プロの料理人は日々レシピを考案し、メニューに載せていますし、家庭で台所を担う人たちも、思いつきでつくってみることはあります。
コロッケは、大正時代から流行していました。流行ぶりを象徴するのが、1917(大正6)年に東京の帝国劇場で上演された喜劇『ドッチャダンネ』で歌われたのち、浅草オペラの『カフェーの夜』で使われてヒットした「コロッケの唄」。新婚の妻が毎日コロッケばかりつくるので参った、という歌詞です。
こうして三大洋食は、昭和初期にブームになります。外食やテイクアウトの総菜だけで
なく、家庭でも三大洋食は採り入れられていました。