家康がチャンスをいかさなかったワケ

家康はのちに、この長久手の一戦の後、秀吉軍が龍泉寺川原に夜陣を張ったことを知りながら、速やかに小牧山まで兵を退いた決断について、重臣たちにこう言ったといいます。

「あの時、夜討ちをかければ必ず勝つとは思っていた。しかし、たとえ勝ったとしても、万が一にも秀吉を討ち漏らすようなことがあっては、大変なことになる。

なぜなら、秀吉は天下統一の大功をたてようと望んでいる人だからだ。秀吉軍は10万の兵、こちらは信雄と合わせても2万にもならない。この劣勢をもって、大軍と戦うだけでも武人の名誉である。しかも昼の一戦に勝ったとあっては、これだけでもう十分だろう。私はこの一戦を仕掛けた目的は、達成したと思ったのだ。

さらに夜襲に勝って、しかも秀吉を討ち漏らしでもしようものなら、秀吉は負けたことを憤り、天下を取ることよりも、まず徳川を潰すことが先決だ、と考えよう。そうなれば、互いに無益なことだ、と思いいたったわけだ。〈後略〉」(『名将言行録』意訳)

家康は秀吉の天下統一の志に、敬意を持つと同時に、この一戦で自らの存在を、秀吉や天下に広く印象づけるとの目的は達せられた、と考えていたのでした。

圧倒された秀吉のスピード感

家康と合戦で決着をつけることをあきらめた秀吉は、矛先を織田信雄に定め、信雄の領地のうち、半分にあたる伊勢、伊賀を奪い、信雄に戦意を喪失させました。信雄はそもそも自分が家康に支援を求め、家康と同盟を結んで立ち向かった戦であったことも忘れたかのように、家康に一言の相談もせず、単独で秀吉と和議を結びます。

そのため、同盟者であった信長の子を助けるとの大義名分を失った家康も、秀吉に第二子・義伊ぎい(のちの結城秀康ゆうきひでやす)を養子に差し出して、講和を結びました。

秀吉は家康との講和を済ませると、これまでさんざん苦しめられてきた紀州の根来・雑賀党を押しつぶし、かつて信長が比叡山延暦寺を相手にした時と同様に迫り、高野山金剛峯寺こんごうぶじの武装を解除させ、海を渡って四国をまたたく間に平定します。

秀吉の「勢い」は衰えるどころか、小牧・長久手の敗戦という事実をも葬り去った感がありました。

一方家康は、確かに小牧・長久手の戦いには部分的に勝利しましたが、天下統一という政治的・外交的な大きな枠組みの中では、明らかに秀吉に及ばなかったのです。

しかし、家康はこの一戦で多くのものを失いながら、同時にそれに倍加する得難い教訓を多数学んだことは間違いなかったかと思います。