※本稿は、加来耕三『徳川家康の勉強法』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
信長亡き後、家康を襲った最大の危機
家康が本能寺の変を知ったのは、偶然の出来事からだったようです。
まさにその日の午後、信長と会談する予定でいた家康は、家臣の本多忠勝を先触れとして、京に向けて先発させたのですが、その途上、“変”を家康に知らせようとした京の商人・茶屋四郎次郎と、忠勝がばったり途中で出会ったのでした。
2人はそのまま街道を南下し、家康に急を知らせました。
こうして、本能寺の変の後、わずか8時間ほどで、信長の死は家康の耳に届いたのです。これが不幸中の幸いでした。
一時は「俺はここで腹を切る」とまで気を動転させた家康ですが、家臣たちのアドバイスもあり、正気を取り戻すと、ただちに帰国の行動に移りました。
このあたり、頭の切り替えの早さも、家康の勉強の成果といえるかもしれません。
選択肢は、一つだけ。一刻も早く、自らの領国へ逃げ帰ることです。
とにかく、三河へ――。
帰国を急ぐ理由は、光秀の軍勢による襲撃だけではありません、光秀から出るであろう賞金目当てに、地侍や農民、野盗たちが襲ってくる危険があったからです。
多少目端の利く人間なら、光秀のもとに家康の首を持っていけば、多大の恩賞が得られることはわかっていたでしょう。
なぜ海路ではなく、陸路を選んだのか
飢えた狼の群れの渦中にいる家康は、まさに、「死地」のまっただ中――。
問題は自領・三河へのルートです。この時、家康は、信長との会見のため堺を出て、河内国飯森というところまで来ていました。
一つは堺に戻り、船を仕立てて紀伊半島をぐるりと回り、伊勢湾から三河湾を目指すコース。今一つは、このまま京の南を突っ切って伊賀国に入り、山道を抜けて伊勢湾に出るコース。
困難がより多く予想される、伊賀越えのルートを家康が選んだのは、幼少期に人質として駿河に送られるはずが、船に乗せられて尾張に拉致された、苦い思い出がよみがえったからかもしれません。
船はいったん海に浮かべば、どうなるかわかりません。船頭の思惑一つでどうにでもなってしまいますし、明智方の水軍に襲われれば海の上では、一巻の終わりです。
一方、険しい伊賀超えには、わずかな可能性がありました。
そこは、家臣の服部半蔵正成の先祖の生地でした。しかし信長が伊賀攻めを行い、完膚なきまでに武力で鎮圧したことから、家康を同類とみなして、襲ってくる懸念もありました。