なぜ徳川家康は天下統一できたのか。作家の加来耕三さんは「自分自身が凡庸だと理解していたからこそ、大胆な人事登用ができた。一度は自分を裏切った部下を、ここ一番で採用するという胆力は、並外れたものだといえる」という――。(第3回)

※本稿は、加来耕三『徳川家康の勉強法』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

徳川家康像(写真=CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
徳川家康像(写真=CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

信長亡き後、家康を襲った最大の危機

家康が本能寺の変を知ったのは、偶然の出来事からだったようです。

まさにその日の午後、信長と会談する予定でいた家康は、家臣の本多忠勝を先触れとして、京に向けて先発させたのですが、その途上、“変”を家康に知らせようとした京の商人・茶屋四郎次郎と、忠勝がばったり途中で出会ったのでした。

2人はそのまま街道を南下し、家康に急を知らせました。

こうして、本能寺の変の後、わずか8時間ほどで、信長の死は家康の耳に届いたのです。これが不幸中の幸いでした。

一時は「俺はここで腹を切る」とまで気を動転させた家康ですが、家臣たちのアドバイスもあり、正気を取り戻すと、ただちに帰国の行動に移りました。

このあたり、頭の切り替えの早さも、家康の勉強の成果といえるかもしれません。

選択肢は、一つだけ。一刻も早く、自らの領国へ逃げ帰ることです。

とにかく、三河へ――。

帰国を急ぐ理由は、光秀の軍勢による襲撃だけではありません、光秀から出るであろう賞金目当てに、地侍じざむらいや農民、野盗たちが襲ってくる危険があったからです。

多少目端めはしく人間なら、光秀のもとに家康の首を持っていけば、多大の恩賞が得られることはわかっていたでしょう。

なぜ海路ではなく、陸路を選んだのか

飢えた狼の群れの渦中にいる家康は、まさに、「死地」のまっただ中――。

問題は自領・三河へのルートです。この時、家康は、信長との会見のため堺を出て、河内国飯森いいもりというところまで来ていました。

一つは堺に戻り、船を仕立てて紀伊半島をぐるりと回り、伊勢湾から三河湾を目指すコース。今一つは、このまま京の南を突っ切って伊賀国に入り、山道を抜けて伊勢湾に出るコース。

困難がより多く予想される、伊賀越えのルートを家康が選んだのは、幼少期に人質として駿河に送られるはずが、船に乗せられて尾張に拉致された、苦い思い出がよみがえったからかもしれません。

船はいったん海に浮かべば、どうなるかわかりません。船頭の思惑一つでどうにでもなってしまいますし、明智方の水軍に襲われれば海の上では、一巻の終わりです。

一方、険しい伊賀超えには、わずかな可能性がありました。

そこは、家臣の服部半蔵正成はっとりはんぞうまさなりの先祖の生地でした。しかし信長が伊賀攻めを行い、完膚なきまでに武力で鎮圧したことから、家康を同類とみなして、襲ってくる懸念もありました。