ターゲットは石田三成
家康は元来、凡庸な武将ですから、ごく平凡で常識的な発想しか持っていません。
ある時、正信に天下取りの策を聞かれると、家康は当然のごとく、
「自分以外の四大老(前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家)を順番に潰していく」と答えたといいます。
しかし、正信の頭の中にあるのは、全く違う方法でした。
「そんな悠長なことをしていたら、いつまでたっても、誰が敵で誰が味方なのかわかりません。それよりは敵を炙り出して、一気に叩く手が有効でしょう。そのためには、手強くとも石田三成を殺してはなりません。
三成を生かしておけば、三成憎しでこちらにとっての敵と味方がはっきりいたします。三成をそのまま泳がしておけば、三成が勝手に政局を掻き乱してくれるので、必ず天下が殿の手に入ります」
と、進言したのです。
正信は長い放浪生活の経験上、一丸となった組織は強いけれど、内部で相互に不信感を持つ組織は案外と脆いことを、よく知っていました。
そして、豊臣家の文治派の代表である三成が、多くの武断派の武将たちに蛇蝎の如く嫌われていることも、よく理解していました。
秀吉の発案、決断とはいえ、朝鮮の役の前線で必死に戦っている武断派の武将たちを、三成は充分にねぎらうこともなく、終始横柄な態度で接し、秀吉への報告は讒言といってもいいぐらい、悪意を含んだもの(もちろん、武断派からみて)だったからです。
私が舌を巻いた家康の行動
家康は正信の進言を容れ、家康は武断派の面々が三成へ向ける愚痴を丁寧に聞いてやり、三成との対立軸づくりに応用しました。
やがて三成は、秀吉の死後、豊臣家乗っ取りを企てる家康打倒に立ち上がり、事は家康の描いた絵図通りに進行していきます。
家康の人使い=「学び」のうまさの真骨頂でしょう。自分の思いつかぬことを進言してくれる正信を、家康は存分に使い切りました。離反して一揆軍の軍師となり、長く反抗し続けてきた元家臣を許して、自らの側近とし、ここ一番で登用するなど、なかなかできることではありません。
家康の、自分という凡庸な人間の、限界を知った勉強法のおかげでしょう。