労働運動も戦時期に大きく進展

婦人運動家の市川房枝さんは、後に自伝にこう記しているほどです。

「国防婦人会については、いうべきことが多々あるが、かつて自分の時間というものを持ったことのない農村の大衆婦人が、半日家から解放されて講演を聞くことだけでも、これは婦人解放である。時局の勢いで、国防婦人会が村から村へ燎原の火のように拡がって行くのは、その意味でよろこんでよいかもしれないと思った」

たとえば労働運動なども、戦中期に大きく進展するケースが多々ありました。外国との紛争の中で、国内において不和があってはいけないと、政府が労働側に歩み寄ることで、それは起きています。国防婦人会のケースはそれとは少し違うかもしれませんが、やはり戦争の仇花でもあり、何とも皮肉な女性解放が起きたと言えるでしょう。

戦後は再び少子化推進

1945(昭和20)年、“多子化”政策にもかかわらず、物量で圧倒する米軍に日本は敗れました。日本の再興を恐れたGHQ(連合国軍総司令部)の介入もあって、戦後日本では再び少子化=産児制限運動が息を吹き返します。やはりGHQとて、政策の主語は女性ではありませんでした。

終戦の翌年1946(昭和21)年1月には厚生省が人口問題懇談会を開催し、その継続的審議のために財団法人人口問題研究会内に人口政策委員会を設置。「人口収容力拡大のみによる過剰人口の解決は至難」とし、「出生調節の普及は必然の勢」とする建議を同年11月に提出しています。ここで再びサンガー女史を1954(昭和29)年に招聘しょうへいし、今回は、国会にも彼女が呼ばれることになりました。

人工妊娠中絶が合法化

産児制限を事実上、後押ししたのが、1948(昭和23)年制定の優生保護法です。「優性上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護すること」を目的とし、母体の危険がある場合といった条件付きだったが、人工妊娠中絶が初めて合法化されました。優生思想が色濃く影を落とす政策ではありますが、女性への配慮が明文化された点は、歩幅は小さいながらも前進したと言えるでしょう。

1949(昭和24)年には経済的な理由による中絶も認められ、1952(昭和27)年には医師の認定と配偶者の同意があれば手術が受けられるようになります。このことは、生まれてくる子どもの人権に配慮が不足してはいますが、ともあれ、女性の権利が拡大したのは否めないところでしょう。

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その後ほどなく、産児制限は政府によって「家族計画」と呼び替えられるようになります。子どもは自然に授かるものから、計画してつくるものへと変わったということでしょう。

この時代の優生保護法と産児制限から発する少子化の流れには、(GHQによる)日本再興の防止、人口過剰問題など、女性を手段として捉える目的が並んではいます。その中で、望まぬ妊娠の排除、母体の保護という点だけが、わずかに女性への慮りといえるでしょうか。