保健婦が村で避妊指導
家族計画の話を進めましょう。『昭和33年度版厚生白書』はこう書いています。
「われわれが健康にして文化的な生活を営むためには、自らの手で家族設計すなわち適当な家族構成を考えて行くことが必要となるが、家族計画とは、このような自主的計画的な家族設計のことをいう(中略)それは単に子供の数を減らすということではなく、現在と将来を考え、適当な時期に適当な数の子供を生む自主的な計画をいうのであるが、このような家族計画を実施するための手段が受胎調節なのである」。
つまり、中絶などの荒技が必要となる前に、「望まぬ妊娠」を回避させる受胎調節(避妊)教育が必要ということでしょう。こうした教育は、あるものは政府の手により、あるものは民間の自主的活動として広範に展開されていきます。
1950(昭和25)年に国立公衆衛生院がスタートさせた「計画出産モデル村」事業がその先駆けとなります。子宝思想が色濃い農村部に専門家を派遣し、地元の保健婦と連携し、避妊の指導を行いました。
昭和33年白書には「自主的な計画」といいながら教育を施すという、自家撞着が見て取れるような代物です。こうした練り込みが弱く、短兵急な啓蒙活動は、えてして軽はずみな連鎖を生みがちです。そうして、政府の放った荒矢に、企業経営者まで強く射抜かれてしまうことになりました。
「セックスの会社管理」で妊娠数は激減
企業側が行ったのは経営効率を上げるための労務主導型産児制限。受胎調節を実施すれば子どもが減り、家族手当や医療費が節約できる。社宅も狭くて済む。また避妊の実行により、夫たる社員は家庭での負担が減り、仕事に専念できる。職場での事故も減り、生産性が向上し、会社の利益も上がる……。まさに主語は「会社」という理屈で、厚生省の人口問題研究会の指導の下、保健婦が指導員として各企業に派遣されていきます。
先陣を切ったのは、日本鋼管川崎製鉄所でした。モデル地区として1122世帯を選び、5世帯1グループとして主婦、つまり社員の妻を組織化し、1953(昭和28)年6月から指導員10名が実地指導に赴きます。指導前と1年後の1954(昭和29)年に行った調査によると、716世帯(妻が49歳未満)において、受胎調節実行者は39.7%から56%に上昇、妊娠数は238から67へ、出産数は154から25へ激減しました。一方、受胎調節に失敗し妊娠してしまうケースは事前調査の20%からほぼ変わりません。中絶数は59から33まで減ったものの、出産数を上回ったままでした。
こうした運動は「新生活運動」と称され、これ以降、1960年代に国鉄、東芝、日本通運、三井鉱山、トヨタ、日産、中部電力などの大企業や官営企業で実施されていきます。ピーク時には55企業・団体124万人が参加したともいわれるほどになりました。これを揶揄し、「セックスは“会社管理”」という見出しを掲げる週刊誌まで現れたほどです。