可視化されやすいところに親は注力する

政府は改善しようとしているのでは、と尋ねると、「文化とはそういうものじゃない、政府は何かを取り上げて、まずかったからとまた構築しようとしても、そんなに簡単にはいかない」。

実際にはシンガポールでも、子どもが自分の好きな部活動を選ぶような形でCCAに取り組んでいる事例もあるだろう。私が自分の子どもを行かせていた近所の「ゆるい」ローカル幼稚園のシンガポール人親たちは、コロナ流行前までは、卒園してからも定期的に外遊びの約束をして、16時頃から18時すぎまでよく遊んでいた。

しかし、エリオットさんの言うとおり、放課後の活動が手段化している層がいるのも事実だ。そして、本来評価しづらい教育活動が、グレード化されるようになり、本質的に何のために何をさせたいのかはさておき、可視化されやすいところに親たちは注力しようとする。

点数、資格、グレードで差をつけるための競争

塾・習い事産業も、このような状況を反映し、細かなレベル分けをして、「資格」を出している。

たとえば、小学3年生から参加することができる、あるロボティクスの教室に、私の息子が行ってみると、子どもたちが作りたいものを自由に試行錯誤していく――ようなプロセスはほぼなかった。

マニュアルに従って、レベル1を、まず教わったとおりにこなせたら、その練習をして、レベル2に進む。レベル2も終えると、試験があり、それを通れば、1つ資格がもらえる。

その資格レベルがある程度まで上がれば、今度は大会に出場ができる――というふうに、子どもたちが進む道が敷きならされている。

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シンガポールにおいては、日本で東京大学大学院の本田由紀教授が指摘したような、人格などの深部に入り込むような評価と競争というよりは、点数化できる実績づくりを目指した局所的な競争がもたらされているように見える。

本来、子どもの様々な能力や素質に着目することを目指すための政策であっても、選抜に埋め込まれれば、周囲と同等の資格や級があっても差異化ができないため、必然的に相対的な競争となる。

「従来型学力」以外の側面でも、相対的評価をされるには、実力の証明が必要との親の解釈に加え、習い事などの学校外教育の事業者による商業的な宣伝もあり、可視化できる指標を獲得するための新たな競争が発生する。子どもの雇用可能性を高めることは親の責任として認識されており、ここでもやはり、周囲の親が準拠集団(価値観や行動に強い影響を与える集団)となって、政府が直接言及している以上の解釈を生み、「選抜に有利」という憶測が過剰な競争を生み出している。