「自分の時間」への執着心が強い現代人
物語でウサギが炎に身を投げ、捧げたものは、「己の肉体」と、もう一つはこれから先にあった「自分の時間」です。ウサギの肉体は一人の人間の空腹を満たすことができますが、時間が経てばまたお腹が空いて同じ苦痛にさいなまれます。
しかし、「自分の時間」を布施したウサギは月にその姿を宿し多くの人々に伝わる「教え」に昇華し、限られた時間から解き放たれました。その尊い精神は多くの人々を救うことになったのです。
「自分の時間」をすすんで分け与えること、これはおそらく現代人にとって最も難しいことだと思います。
私は冒頭で「新しい挑戦は自分の時間を考えることだ」と述べました。移動時間や通信速度など日常生活の速度がぐんぐんと加速している社会だからでしょうか、「時間の無駄」に対して、特に現代人は敏感です。
私たちは今、自分自身のとりわけ「自分の時間」にとても執着していると感じます。そして、この執着心がせっかくの挑戦の意義を妨げてしまうのではないかと思うのです。
悠久の時の中でわれわれは生を受けた
私が所属している宗派ではお説教の前に『三帰依文』という偈文を読み上げます。その冒頭に次のような一節があります。
(東本願寺出版『真宗聖典』巻頭)
【筆者意訳】
人として生を受ける縁は得がたい。しかし、今まさに人として生を受けている。仏教に出あう縁は得がたい。しかし、今まさに仏法を聞く縁に出あっている。
注目すべくは人身(人としての生)を「受ける」という表現です。人としての生は私たちが獲得したものではなく、受けたものであると。一人の人間が生まれるまでには、たくさんの縁が連なっており、一人の人間の一生が80年だとしても、その時間が生まれるまでには悠久の時が必要であったということ。そしてその連鎖はこれからも続いていきます。
「自分の時間」という限定的な考え方はこの大きな流れから自らを分断してしまう、私たちに流れる過去未来の時間軸を「今だけ」に狭めてしまいます。お互いがお互いの時間を布施し合ってこそ、一人ひとりが大きな時間を取り戻すことができます。
これは、本当はそんなに難しいことではないのかもしれません。なぜなら大乗仏教では、私たちには他者の苦しみを和らげたいと願う心「仏性」が備わっていると考えるからです。
シビアに考えすぎると「自分はそんな器ではない」と立ち止まってしまいそうですが、完璧である必要はないのです。「困っている人に思わず声をかけた」「お客さまの笑顔のために仕事を頑張る」とか……その萌芽を見逃さないこと。まずは一人ひとりに備わっている仏性に目覚めていくのが大切なのです。
やがて、あなた自身が深く考えて「自分のため」を超えて進むのであれば、きっとその挑戦は、どんなに環境が変わってもあなたに果報をもたらしてくれるでしょう。