肥前平戸藩主だった松浦静山には、江戸時代の代表的な随筆集と評価される『甲子夜話』という著作がある。大名・旗本の逸話、市井の風俗に関する見聞の筆録集だったが、天下祭については次のような実態が紹介されている。

歎ずべきは、軽賤の者、祭礼用意の衣服等の料に支ゆるとて、妻娘を妓に売こと頗る有と聞く。かかる風俗を見捨置くは、町役人の罪と謂ふべし。(松浦静山『甲子夜話1』平凡社東洋文庫、以下同じ)

こうした所行を糾弾する静山の指摘はもっともなことだが、いかに天下祭が江戸っ子を熱狂させたかが窺える証言でもあった。

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江戸型山車の誕生

以下、天下祭の主役格となっていた山車・附祭・御雇祭の内容を個々に見ていこう。まずは、氏子町のシンボルたる飾り物が付けられた山車からである。

山車には、町名や町の由来にちなんだ人形が飾り付けられることが多かった。山王祭でみると、十七番組(小網町)の山車は「網打人形」。二十六番組(本材木町一~四丁目)の山車は「棟上人形」。神田祭で見ると、二十七番組(鍛冶町)の山車は「小鍛冶人形」。三十番組(雉子町)の山車は「白雉子」が付けられた。

こうした飾り物を見れば、各氏子町の特徴が一目で分かる趣向になっていた。その様子は現存する祭礼絵巻からも確認できる。

特徴である三階建ての山車も見える(「神田大明神御祭図」歌川貞重画=国立国会図書館蔵)

神田祭の場合、山車の形態は吹貫型、笠鉾型、万度型、岩組型、江戸型の五種類に分類されている。吹貫型は吹き流しを載せた山車。笠鉾型は一本の柱に笠を付けた山車で、てっぺんに人形や飾りが載っている。万度型は柱のてっぺんに人形や飾り物を置き、その下に町名などを書き記した花飾りの万燈を据えた山車。岩組型は張子の岩(岩組)の上に人形や飾り物を据えた山車である。

「二輪の台車に三層の櫓」のワケ

そして、江戸型は二輪の台車に三層の櫓を置いた山車だった。三階建ての山車の一階には囃子方が乗り込み、三階には町のシンボルである人形が置かれたが、人形のある三階部分は下降させることができた。上下に伸び縮みできる仕組みとなっていた。

山王祭と神田祭の祭礼行列は江戸城の城門を潜らなければならないため、その高さにはおのずから上限があった。三階建てのままでは通過できず、二階建ての状態にする必要があった。その工夫が施されたのが江戸型の山車なのである。

城門を潜る時に人形のある三階部分が下降し、無事通過した後は上昇して三階建てに戻るのだ。歌舞伎の舞台にある「迫出し」と仕掛けは同じである。幕末以降、この江戸型山車が多く造られるようになった。

だが、他の山車に比べると製作費が跳ね上がるのは避けられなかった。江戸型山車を一つ新調するのに、四、五百両も掛かったという記録も残されている。

豪華さを競い合った祭礼行列

次は附祭の出し物である。

毎回、祭礼行列のなかでは最も注目を浴びた。いきおい、当番となった氏子町の間での競争が激化して、豪華で華美な内容となるのは避けられなかった。

動きながら芸を披露する踊り屋台と地走り踊りから見ていこう。

前者の踊り屋台は、上に乗った踊り手が芸を見せたものである。参加者は屋台を山車のように引き、踊りや長唄を披露する時は屋台を停めた。移動舞台だったが、屋台に乗れる踊り手や三味線などの伴奏の弾き手の数には限りがあった。

一方、地走り踊りは、歩きながら芸を見せるもので、人数制限を気にする必要はなかった。そのため、女性や子どもが華やかな衣装をまとい、踊り手として多数参加している。附祭の当番町の住人だけでなく、その周辺の町の女性や子どもたちも踊りの師匠に連れられて参加した。むしろ、氏子町以外からの参加者が大半を占めた。

踊りには伴奏音楽が必要であるため、三味線、笛、太鼓、鼓などの楽器を担当する者も一緒に練り歩いた。いずれもプロの演者であり、レベルは高かった。歌の文句も最新の流行語や町名などが盛り込まれていた。仮装による寸劇も演じられた。

このように、賑やかな光景が繰り広げられ、祭礼のメインになっていたと言っても言い過ぎではない。歌舞音曲、造り物などの芸術、演劇……江戸の芸能文化が祭礼の場を通じて、いわゆる「見える化」されていた。

ゾウや朝鮮通信使の「時事ネタ」も

練り物には定番があり、山王祭の場合は象の造り物がその一つだろう。

享保十四年(一七二九)に、中国の商人を通じて八代将軍吉宗にベトナムの象が献上され、物見高い江戸っ子の目にも触れたことで大きな話題を呼ぶ。象ブームの到来を契機に象の造り物が登場し、山王祭での練り物のシンボルとなった。江戸のガイドブックである『江戸名所図会』や『東都歳時記』の挿絵でも取り上げられたほどだった。

八代将軍・吉宗に献上されたベトナムからの象が大人気に。早速、造り物の象が登場(「千代田之御表」=国立国会図書館蔵)

神田祭の場合は、「大江山凱陣」にちなんだ練り物が挙げられる。江戸っ子でも知っている古典にちなんだ造り物であった。大江山に鬼退治に出掛けた源頼光が鬼(酒呑童子)の首を持って凱旋がいせんしてきた場面をテーマにしたものだ。この鬼の首の造り物は神田祭の練り物の名物となり、同じく『東都歳時記』の挿絵で取り上げられている。

図版=国立国会図書館蔵
鬼退治をテーマにした造り物が定番に(「神田明神祭礼図」=国立国会図書館蔵)

朝鮮通信使の来日を受け、その様子を復元した仮装行列もみられた。これは時事ネタを取り込んだ練り物ということになる。

単に造り物を移動させるだけでなく、仮装した参加者がともに練り歩くのが通例だった。それも音楽付きだから、さぞや賑やかだったことだろう。