養育費はもらわず、育てる覚悟を決めた

「職なし、お金なし、住む家もない。私はなんてアホなんだろうと思いながら、とにかくアルバイトを始めたんです。予備校の受付、英語試験の採点など何でもやりました」

結局、夫と話し合った末に離婚を決意。もはや元の生活に戻る気持ちになれず、子どもは自分が育てることを許された。良き父親である夫に申し訳ないという思いから養育費をもらわず、シングルマザーとして生きる覚悟を決めたのだ。娘がまだ2歳の頃だった。

それでも就職先はすぐには決まらない。保育園の5時半のお迎えに間に合うこと、休みがきちんと取れること、収入は低くても安定していることを条件に仕事を探す。大阪の郊外に住んでいた中原さんは地方公務員を狙い、やっと見つけたのは給食の調理員。当時29歳でも受けられたのは、女性では給食の調理職だけだった。

「保育園の給食のおばちゃんですね。ちなみに試験は腹筋と懸垂でした(笑)。確かに給食の仕事は重労働で、危険をともなう仕事です。大量の油を使いますし、工場みたいな調理場なので野菜の切断機も扱います。ゴムの分厚いエプロンをしていても、火傷やケガもいっぱいしました。上司もすごく厳しい方だったのであまりに辛くて、マスクの下で涙を流したことも……。本当に知らない世界だったので、子どもを預けて働く保護者はこうした現場で働く人たちに支えられていることを気づかされました」

大学病院で人の生死を目の当たりにする

働くシングルマザーとして奮闘するが、子育てと仕事の両立を辛いとは思わなかった。むしろ前向きに生きようとする中原さんは、さらに未知の世界へ飛び込むことになる。

子どもを育てながら、病院で医療事務の仕事をしていた31歳のころ。(写真提供=ラッセルコーチングカレッジ)

調理職を一年勤めた後、遠縁の親戚から紹介されたのが大学病院の非常勤職だった。一日3000人の外来患者が来る阪大の附属病院で、医事課に勤めることになった。

その業務では、受付や診療科とのやりとり、カルテの処理、保険証の登録、診断書の発行手続きなどあらゆることを任される。医療事務の経験もない中原さんは、メモを片手に必死で覚えていく。膨大な仕事をこなしながら、身につまされることは多かった。

「大学病院では多くの方が亡くなります。さまざまな人の生死を目の当たりにしていると、自分は生きている間に何をすべきかを考えさせられる。その一方で、『生きる』ってこんなに大変なのかと思い知らされます。医療費が払えない人、事故で突然に足を失った学生さんなど、病院には生きる苦しみを抱える人もたくさんいらっしゃいました」

結婚式を来週に控えて乳がんが見つかった女性、わずか6歳で卵巣がんを告知された女の子もいた。救急搬送されても助からず、臓器提供を受け容れる遺族。事故や事件で亡くなった場合は司法解剖しなければいけないケースが多く、それを拒否する家族と揉めることもある。20年前に大阪教育大付属池田小で起きた乱入殺傷事件の際はサイレンが鳴りやまず、救急救命センターも混乱する事態に衝撃を受けた。

まさに命の最前線の現場にあって、中原さんはどんな思いで働いていたのだろう。