「僕は、パリ時代からなにひとつ変わってないのに、国が変わったらポジションも変わりました。パリでは劣等感の塊で、僕はポンコツのクズ野郎だと毎日のように思っていたけど、その原因は僕じゃなくて、環境にあったと気づいたんです」

もちろん、アメリカにも差別はあり、時にそれを感じることもあったが、存在すら認められないパリ時代に比べれば、なんでもなかった。伸び伸びと暮らせるようになり、仲間とバンドを組んで作詞作曲を手掛けると高く評価されて、インディーズデビューも果たす。充実したハイスクールライフは、瞬く間に過ぎ去っていった。

インタビューに応じる澤田さん(筆者撮影)

迎えた高校3年生の夏、7年ぶりに日本に帰国。すぐに進路を決めなくてはいけない時期だったので、帰国子女枠があった慶応義塾大学を受験し、合格。さあ、ようやく差別を受けない母国に戻ったし、大学生活をパーっと楽しもう……とは思えなかった。

「アメリカは、パリ時代に比べたら居心地はよかったけど、やっぱりアウェイ感がありました。中1からずっと浮いている存在だったので、日本では大衆に埋没しようと意識したんです。どこにでもいる平凡な大学生になりたかったので、とにかくみんながすることをまねました。授業さぼって、バイトして、飲んで、みたいな」

この埋没作戦はある程度うまくいったが、時折、周囲から「やっぱり、アメリカ帰りっぽいね」と指摘された。それは決して悪口ではないとわかりながらも、そう言われるたびに「俺、もしかしたら日本でも浮いてる? ここもホームじゃないのか……」と不安になった。澤田さんは、当時の心境を「自分のマイノリティ性とマジョリティ性のなかで揺れ動いてきた」と振り返る。

広告代理店の花形職に

就職活動で広告代理店に入ろうと考えたのは、ポジションが自分と似ていると思ったからだ。

「転勤が多かったから、僕はどこにも所属している感覚がなくて、なにかとなにかの狭間というポジションが染みついていました。流動的な環境に慣れていて、変化し続けていないと不安なんです(笑)。その点、広告代理店はいろいろな企業とやり取りするから『間』にある存在ですよね。それに、僕は中学生の頃からずっと日本語の繊細さや多様な表現が好きだったから、言葉を使って企業のイメージを良くしたり、商品のことを知ってもらったり、売り上げを伸ばすのは魅力的だなと思いました」

2004年、広告代理店に入社。最初の1年は営業に配属され、転局試験に合格して、2年目からクリエイティブ局のコピーライター職に就いた。念願の「言葉」を操る仕事だ。

最初の頃は鳴かず飛ばずで暗中模索した時期もあったが、少しずつ評価される仕事が増えた。やがて、広告業界の花形職、CMプランナーとしていくつものプロジェクトを抱えるようになった。仕事の規模が大きくなるのは、誇らしいこと。それなのに、違和感が膨れ上がっていた。