「いわゆる大企業の王道的な広告を作る仕事って、成功パターンがあるんですよ。それを踏襲すれば、インパクトのある、効果的な広告になる。でも、僕は自分を型にはめるのは苦手で、納得できる仕事ができませんでした。それでも、会社としては問題ないんです。大きな仕事にはコピーライターもたくさんかかわるので、僕がいなくても滞りなく進んでいく。自分はいなくてもいい存在だと自覚すると、王道の仕事をするのが怖くなりました。そのうち役立たずと思われて、窓際に追いやられるかもしれない。透明人間だった中1の時に戻るんじゃないかって」
漫画と音楽を武器に切り拓いた道
脳裏によみがえる、地獄のパリ時代。あの頃には、絶対に戻りたくない。ただ、広告会社のコピーライターを辞めるつもりはなかった。社会の狭間で言葉を駆使する仕事は好きで、ほかにやりたいこともない。では、どうするか。この時、パリからアメリカに渡った時のことを思い出した。
「国が変わったら、ポジションも変わる」
澤田さんは、世の中のコピーライターの99%が走り、肩をぶつけあいながら競争している王道から外れ、違う道を探そうと考えた。
思い切って一歩を踏み出すと、そこは無人の荒野だった。ひとりで生き抜くには、自分の武器をフル活用するしかない。澤田さんにとっての武器は、中学時代にひたすら描いた漫画と、高校時代に磨いた音楽の腕だった。
ここから、言葉と漫画、音楽を掛け合わせた澤田さんの開拓史が始まる。まず、同期への相談をきっかけに、フリーペーパー『R25』で漫画『キメゾーの「決まり文句じゃキマらねぇ」』の連載が決定。これが好評で、大手企業とのコラボやコラボ商品の開発にもつながった。
チェーン店、天丼てんやのプロモーションでは、「エビメタバンド」を結成。新商品が登場するたびに、澤田さんが作詞作曲した新曲をリリースした。こちらも話題を呼び、レコード会社から声がかかってメジャーデビューもした。
こうして独自路線を歩み始めると、社内でも「新しいチャレンジをするキャラ」として認知され、澤田さんを指名する仕事も増えていった。アメリカ時代の経験を活かし、自ら環境を変えることで、居心地のいいポジションを見つけたのだ。
「今の夢はなんですか?」
漫画を描き、音楽も作れるユニークなコピーライターとして活躍の場を広げていた澤田さん。自分で開拓したこの道で生きていこうと手ごたえを感じていたその矢先に、息子の障害が発覚した。さらに、目の奥にある異物が悪性腫瘍だったら命の危険もあると宣告されて、冒頭に記したように、パニック状態に陥った。
検査の結果、幸いにも悪性腫瘍ではなかったものの、今度は「白内障と緑内障を発症していて、放っておくと眼圧が上がり、頭痛や吐き気を併発するから、手術をしましょう」と告げられる。命が助かったと一息つく暇もなく、2013年の5月と7月、二度にわたる手術が行われた。