この選択が、澤田さんを苦しめた。大きな要因のひとつは、日本で過ごした5年間ですっかり英語を忘れていたこと。もうひとつは、同級生たちにとって、初めて接する日本人だったこと。
学校の初日、澤田さんは分厚い和英辞書と英和辞書を抱えて登校。ほかの生徒が話しかけてくると、必死に辞書をめくりながら、応じた。翌日から、誰も話しかけてこなくなった。
「きっと、初日でこいつと話すのは面倒くさいと思われたんでしょうね。2日目から1年間、ずっとひとりでした。僕がいても、いないかのように扱われて。さすがに先生は話しかけてくることもあったけど、それも最低限。いじめというより、芸術的なまでの透明人間でした」
地獄のような日々で救いとなった本と漫画
自分で選んだ道だから、学校を変えたいと親に訴えるのもはばかられる。その頃は不登校という言葉もなく、13歳の少年には学校に行かないという選択肢も思いつかない。学校で空気のように過ごした毎日を、澤田さんは「地獄」と表す。
地獄で生きる澤田さんを救ったのは、日本の書籍と、自分で描く漫画だった。江戸川乱歩から赤川次郎まで、フランスの図書館に置かれている日本の本を片っ端から読みあさった。そのうちに、物語だけでなく、日本語自体に興味を持った。なぜ、ひらがな、カタカナ、漢字の3種類が混在しているのか。なぜ、一人称だけでこんなにたくさんの種類があるのか。日本語の複雑さや表現の豊かさに魅せられた。
本を読んでいない時は、野球もの、冒険ものなどの漫画を描いていた。それは誰かに見せるためでなく、自分のために描いていたという。
「僕は当時、世界に対してアウェイ感を感じていました。透明人間なので、生きていること自体が、敵の本拠地に乗り込んで試合するみたいなプレッシャーがあって。だから、想像の世界では自分が安心できるホームグラウンドを描いていました。頭の中のイメージを発散することで自分を癒やすセルフセラピーみたいなものですね」
澤田さんにとって幸運だったのは、透明人間生活が1年で終わったこと。2年生に進級するタイミングで入学してきたパキスタン人のアデル君が英語をほとんど話せなかったこともあり、ふたりで過ごすようになったのだ。アデル君の存在で、ずいぶんと孤独が癒やされたという。
アメリカで気づいたこと
その1年後、また父親が転勤することになり、今度はアメリカへのシカゴへ。新生活が始まってすぐに、澤田さんは驚いた。現地の高校は生徒の人種もさまざまで、英語が自分より下手な生徒も、発音がおかしな生徒もたくさんいた。それが当たり前で、気にしている様子もない。アメリカでは、マジョリティの一員になったのだ。