仕事をしながらの介護は、介護漬けにならずにすむ
私は、この「ながら」介護が一般化している実態を把握した当初には、あれもこれも同時にこなさねばならぬ介護の困難さを強調する意味で「ながら」介護という概念を使ってきた。しかし、先の事例を目にしてその考えは全く一面的であると考えるようになった。
確かに、介護に専念する家族を選択し得ない状況からすれば仕事も介護も家事もという生活全般を一手に担わなければならない、という意味においては「ながら」介護は困難さの象徴であるかもしれない。ただ、この「あれもこれも」も同時に担うという介護生活の神髄は、困難さというだけではないということをこの事例は雄弁に語っている。
端的に言えば、仕事と介護の両立が可能な環境とは、24時間365日介護漬けにならずにすむという新しい介護生活の可能性を切り拓いているのではないか、ということである。仕事の継続が介護から離れるための根拠になって、自分専用の環境(時間・仲間・役割・収入など)を誰憚ることなく享受することを可能としているのだ。介護する人という役割のみを背負うのではなく、一人の市民として生き切ることを可能とする環境を求めることの正当性だ。福本さんの体験記に記された言葉にいま一度耳を傾けてみよう。
「定年までもうすぐだよ」という同僚の励まし
この体験記には、若年認知症を患った妻の症状を職場に早くカミングアウトし、SOSを発してきたことが同僚の理解と支援につながったとも記してあった。妻の症状が重篤化し、一人にしておけなくなったとき「もう辞めよう」と思い悩んだのだが、「定年までもうすぐだよ」との同僚の励ましで、やっと利用を始めたというデイサービスなど介護サービスの豊富化やその利用効果も両立を後押ししてくれた。適切な配慮があれば「辞めなくてよかった!」ということなのだろう。
あと2カ月で定年。彼はもちろんだが、彼を定年まで支えることができた職場の同僚の「万歳」の声も聞こえてくるような胸が熱くなる一文だ。「あれもこれも」同時にこなさなければならない困難さと同時に、その辛さを潜り抜けた向こう側には仕事を続けることができるということが24時間365日介護漬けにならなくてもいい真っ当な根拠として誰からも支持され歓迎される新しい時代もまた始まっているのだ。
2018年の夏、私は彼の後日談を聞きたくて熊本まで出かけてきた。彼は67歳、妻は65歳になっていた。「通勤時間の1時間が一番ゆっくりできる時間」という過酷な毎日を潜り抜け、無事に定年を迎えたという。妻はもうベッドでの全介助、寝たきりの毎日だが、介護のある暮らしはゆっくりと続いていた。