妻のブレイクが人生の転機となった
フレクスナーの生徒は全米トップクラスの大学を狙えるほどめきめきと力をつけた。フレクスナーの教育に懸ける情熱が、そうした結果に大きく寄与していたことはまちがいない。だが、教育を通じて生徒に自信を与え、試験よりも学ぶことに集中させた彼の判断こそが、決定的な違いを生んだのである。
いつしかフレクスナーは、自分の考えでアメリカの教育を改革する夢を持ち始めた。だが現実はそううまくいかず、家族を支えるためにルイヴィルにとどまった。
妻のアン・クロフォードがいなければ、フレクスナーは鬱屈したまま地元で一生暮らし、高等研究所はこの世に存在しなかったかもしれない。
あるとき、ルイヴィルの女性向け創作サークルに出たアンは、作家のアリス・ヒーガン・ライスによる貧しい未亡人の物語を耳にした。不遇のときを過ごしながらも明るく家庭を守る女性を描いたその小説を、妻のアンは『キャベツ畑のおばさん』という舞台劇に仕立てた。それは1904年にブロードウェイ公演が延長されるほど評判を呼び、シリーズものの映画にもなった。初上演の年、アンは1万5000ドルを手にした。当時としてはひと財産だ。
39歳にしてついに、フレクスナーは全米の大学と大学院の教育を改革する計画に乗り出す。進学準備校を売却すると、妻子を連れてマサチューセッツ州ケンブリッジに移り住み、ハーバード大学で修士号を取った。それから2年かけて、一家でヨーロッパの大学をまわった。
どこへ行っても劇作家のアンは大人気で、さらに彼女の天性の人懐っこさも手伝い、フレクスナーひとりでは望みようのない門戸が次々に開かれた。彼はアンを介して、アメリカとヨーロッパの一流の作家や思想家に何人となく会ったのだった。
フレクスナーが見出した天才に共通する特徴とは
フレクスナー一家は、当時の科学活動の中心だったベルリンに引き寄せられた。ベルリン大学の教育は、世界一の水準を誇っていたことで有名だ。
フレクスナーは高名な科学者の講義に足を運び、のちの彼のキャリアを支えることになる、非凡な知性の特徴について考えを深めた。なかでも感銘を受けたのは、ドイツを代表する心理学者のカール・シュトゥンプだ。
シュトゥンプは、きわめて複雑な問題を簡潔に生き生きと語れた。ノーベル賞受賞者のアーネスト・ラザフォードはこんなふうに語っている。「物理法則はカフェの女給が聞いてもわかるものでなければならない」
ゲオルク・ジンメルというすぐれた社会学者は、話があっちこっちに飛ぶのがお決まりだったが、どの話題も新しく、フレクスナーに未知の可能性を見せてくれた。「頭脳明晰な人々は、仕事が遊びになったときに自分が正しい場所にいると悟る」とフレクスナーは結論づけた。
フレクスナーが見出した、天才に共通する特徴とは何か。それは、厳密さを求めるが自由な心を持ち、複雑な問題をわかりやすく解きほぐし、人々を新たな世界の探求にいざなえる能力だったのである。