反ユダヤ主義の風潮の中ユダヤ人を多く採用した理由
創立当初のフレクスナーはあらゆる重要な決定について、とりわけ採用について教授陣によく相談した。科学者でない彼はチームの意見を大事にしていた。教授会をたびたび開き、所の方向性や課題について話し合った。異なる意見に寛容だったし、相手の話を聞く耳も持っていた。
フレクスナーが望んで作り上げたのは、能力主義の文化だ。彼は教授のランクを、地位や立場ではなく業績によって決めた。多くの社会的障壁を破り、出自にかかわらず最もすぐれた人物を採用した。
アメリカの大学で反ユダヤ主義が横行していたときに、高等研究所の教授の多くがユダヤ人だったのはそのためだ。
高等研究所と密接な関係にあったプリンストン大学には、ユダヤ系の学生を一定以上受け入れないとする正式な規定があり、ユダヤ系の教員の数も内々に決められていた。
フレクスナーはその規定も性別の壁も無視した。終身在職権を持つ女性研究者がいなかった時代に、考古学者のへティ・ゴールドマンを終身地位で雇った。
フレクスナーがこのような規格外のチームを作ったのはなぜか。人種や性別などの先入観を介在させたくない、という思いがあったからだ。彼は慣習によらず、また偏見に惑わされることなく、最もすぐれた人物を採用した。能力主義の環境を作り、創造性を発揮できる自由を与えた。
「規則なし、試験なし、成績なし、通知表なし」の学校
天才とはいったいどういう人々なのか? それがわかる天才の特徴を、フレクスナーは教育者だったキャリアの初期に見出している。
フレクスナーの父モーリッツは帽子商人だったが、1873年の恐慌で仕事を失った。その打撃から経済的にも精神的にも立ち直れず、わが子に教育を授けられなかった。代わりに、薬局を経営する兄ジェイコヴの援助を受けて、フレクスナーはジョンズ・ホプキンズ大学に通った。「生まれつき知的な人が天才になるのに教育は必要か」とフレクスナーが考えだしたのは、このころのことだ。
その後、大学院への進学を希望するも奨学金を得られず、学費を工面できなかったため、フレクスナーは故郷のケンタッキー州ルイヴィルに戻った。そしてそのルイヴィルで、大学進学を目指す男子生徒のための進学準備校を始める。自分を援助してくれた兄に倣い、別の兄(世界的病理学者のサイモン・フレクスナー)と妹の学費も出した。
ルイヴィルの進学準備校で、フレクスナーは「脅しや強制は生徒のやる気をほとんど引き出さない」と気づいた。そんなことをしても、生徒の知的水準は上がらない。むしろのびのびと楽しくやらせるほうが、生徒はみずから学ぶようだった。生徒にとっては、成績よりも知識のほうが魅力的だったのだ。
フレクスナーは、学校の方針を「規則なし、試験なし、成績なし、通知表なし」に変えてみた。すると生徒が遅くまで居残り、週末も学校に来て勉強するようになった。彼らが大学入試で好成績を収めたとき、フレクスナーは自分の仮説の正しさを確信した。