※本稿は、岡本裕一朗『哲学の世界へようこそ。——答えのない時代を生きるための思考法』(ポプラ社)の一部を再編集したものです。
野球応援に興味がないのはいけないことなのか?
他人に共感できることは、本当にいいことなのだろうか。この記事では、身近な事象を哲学的に考察することを通じて、これまでの常識を問い直していきたい。
たとえば、近年よく耳にするようになった「サイコパス」。
かつては、FBIの犯罪捜査などで取り上げられる残酷な連続殺人魔と見なされていたが、最近ではそのイメージもずいぶん変わってきたようで、身近な扱いにくい困った人物を「サイコパス」と呼ぶこともあるらしい。「隣のサイコパス」なんてフレーズが本のタイトルに入って話題となるくらいだ。
しかし、こうした流行には思わぬ誤解がつきまとう。たとえば、周りと同調しない人が安易に「サイコパス」と揶揄され、イジメの対象になったりする。そのため、あまり気のりしないことであっても、仕方なく周りと合わせなくてはならなくなる。
こんな状況を考えてみよう。
レイナはサイコパス?
レイナが通っている学校はスポーツが盛んで、とくに野球は強豪校だ。今年のチームは例年以上に強く、甲子園にも出場しうるほどの実力を持っていた。地方大会も順調に勝ち進み、決勝戦を残すのみ。そこで、レイナのクラスでは、みんなで応援に行こうと決めた。
ところが、レイナはもともと野球に興味がなく、野球部が甲子園に行っても行かなくても自分には関係ないと感じていた。そもそも、みんなでひとつのことに熱狂したり、手を取り合って歓喜したり、負けたときには涙を流したりする──そういう感情がサッパリわからなかった。
だからレイナは、クラスメイトの前でハッキリこう言った。
「私は行きたくない。無関係の他人を応援して、なんの意味があるの?」
すると、レイナはクラスの全員から非難の嵐を浴びた。
「レイナは人の心がわからないサイコパスだ!」
「きっと将来ヤバい犯罪者になるぞ!」
その反応を受けてレイナは戸惑った。私って、サイコパスなの?