インターネット上の記録は原則として消えない。一方、人間は記憶をどんどん忘れていく。哲学者の岡本裕一朗氏は「人間は無意識的に忘却という作業ができるが、機械は『忘れていい』と判断するのが難しい。すべてを記録するネットにも記憶の墓場が必要だ」と指摘する——。

※本稿は、岡本裕一朗・深谷信介『ほんとうの「哲学」の話をしよう』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。

忘れるからこそ新しい情報を受け取れる

博報堂ブランド・イノベーションデザイン副代表の深谷信介氏(撮影=中央公論新社写真部)

【深谷】広告の仕事をしていると、「記憶」について考えることがしばしばあります。広告の第一歩が人々に記憶してもらうことだからです。人々の記憶になんらかのイメージを残す、さらには刻みこむことが広告の役目と考えれば、いまという時代は、人々の記憶がどんどん短命化している時代と言えると思います。

いま、ぼくらは何かを記憶するというとき、その対象や意味内容をじかに覚えておくというより、外部化してそれが入っている引き出しを覚えておくという感じですよね。でも、その引き出しもそのうち数がたくさんになっていって、引き出しのあった場所を忘れてしまう。

デジタルテクノロジーによって情報量は圧倒的に増えていくけれども、人間の情報処理能力はあるところで限界になるので、すべての情報を追うことはできません。しかし、情報のほうは新しい情報がどんどん追加されながら過去の情報もどんどん上書きされて、そのスピードもどんどん速くなっています。結果、人はどんどん情報を忘れていって、上書きされた最新の情報しか見えなくなっているのだと思います。

でもこれは逆の見方をすれば、忘れるからこそ、新しい情報を受け取ることができるとも言えるのであって、忘れることの価値はすごく大きいと思うんです。ですから、デジタルテクノロジーによる情報の上書きの高速化と、人間の記憶の短命化は、表裏の関係にあるんですね。

たとえば企業不祥事を考えても、10年以上前であれば、不祥事を起こした会社に対してメディアバッシングは少なくとも3カ月は続いていたと思います。ところがいまは、企業不祥事がいわば常態化し、個々のニュースが繰り返し上書きされていくことで、メディアバッシングが続かなくなり、どんどん忘れられていきます。