友達が「太った男を突き落とす」と答えたら……
アンケートを行うと面白い結果が出る。
スイッチの場合は、多くの人が功利主義的に考えて、進路を変えることで5人を救い、1人を犠牲にすることを選択する。ところが陸橋の場合では、むしろ義務論的に考えて、「5人のために1人を殺すべきではない」と判断し、5人を見殺しにする人が多くなるのだ。
「5人の命か、1人の命か」という構図は同じはずなのに、問い方を変えると、考え方にも違いが生じ、結果、行動も変わるのである。
ただ、この問題を通してほんとうに問いたいのは、君がどちらの選択をするかではない。君の友人が、陸橋の場面でこう答えたらどう思うか、ということである。
つまり、「結果は同じなのに、2つの場面で考え方を変えるのは矛盾している。だから自分は、スイッチの場面と同じように、陸橋の場面でも5人を救う。つまり、太った男を突き落としたほうがいいと思う」──と。
「良心」の概念はあいまいで、状況によって変わるもの
たしかに、スイッチの場面で5人を救うのであれば、思考の一貫性という意味では太った男を突き落とすほうが正しい。でも、こう答えるとどう言われるか。
「より多くを救うためとはいえ、わざわざ人を突き落とすなんて単なる殺人じゃないか。それを肯定するなんて、君には良心がない!」
しかし、この反論に納得できるだろうか? というのも、スイッチの場合であっても、私たちはあえて進路を変え、1人を轢き殺す選択をしたのである。これだって、死ななくてもよかった1人を5人のために殺した、れっきとした殺人ではないだろうか。
太った男を突き落とす選択をした者に良心がないのであれば、スイッチを切り替えて1人を轢かせた者にも、同じように良心がないと言うべきであろう。
とまあ、こんなことを言われても、感情的にこの理屈を受け入れるのは難しいはずだ。ここで大事なのは、「良心」は自明ではないし、人が何を望ましいと見なすかは状況によって変わるということである。
「サイコパス」の診断基準には、そもそもあいまいな前提が含まれていることを理解しておくべきであろう。