科学者が研究に専念できる環境を作った
高等研究所はノーベル賞受賞者を33人、非凡な数学者に贈られるフィールズ賞(数学のノーベル賞と称される)受賞者を42人、優秀な科学者を称えるウルフ賞とマッカーサー賞の受賞者を多数輩出している。
フレクスナーが集めた天才のチームは、20世紀最高の科学的進歩をいくつか成し遂げたことで有名だ。すぐれた科学者が自由な環境で存分に創造性を発揮できたからだが、そのためには所員に給料が払われているか、冬場に暖房が行き渡っているか、電気がつくか、個性豊かな天才たちがチームとして目標を達成できるかを、だれかが確かめる必要があった。その人物が、高等研究所の初代所長エイブラハム・フレクスナー、アインシュタインの上司だったのだ。
そんなフレクスナーの築いた高等研究所は、歴史上類を見ないほど優秀で生産性の高い科学者の集団になった。
フレクスナーは「器よりも中身が大事」だと主張し、ともに働く人々に助力を惜しまなかった。私財を投じて、当時のどこの大学よりも高い給料と、授業負担のない終身在職権(テニュア)を提供した。おかげで高等研究所の科学者は、自分の時間を好きなだけ研究に費やせた。
フレクスナーは多くのリスクも負って科学者たちを支えた。大恐慌時代としては異例の、所員の年金基金を作ったのだ。支給が始まるころには景気が上向いていると踏んだようだが、あいにく最初の支給時期が来ても、その基金では月々の支払いをまかなえなかった。資金不足を解消すべく、フレクスナーはあちこちの夕食会に出向き、慈善贈与(つまりカンパ)を集めてまわった。
一度入所を断った物理学者も、寛容な心で迎え入れた
フレクスナーは思いやりと忍耐の人でもあった。度が過ぎると言ってもいいほどに。彼がチーム作りをしていたのは、ヒトラーが権力を握ろうとしていた時代である。
そのころフレクスナーは、ドイツの物理学者でユダヤ人の妻を持つヘルマン・ワイルに、高等研究所の教授のポストを申し出た。ワイルはその申し出を断り、祖国ドイツにとどまることを選んだ。
だが、ヒトラーがドイツでユダヤ人の組織的な虐殺を始めると、ワイルは取り返しのつかない間違いを犯したことに気づいた。そしてフレクスナーからの再度の申し出を受け、妻とドイツを逃れて、アインシュタインのいる高等研究所に加わった。フレクスナーは憔悴していたワイルに会い、一度は断わられながらも、ワイルが求めるものを差し出したのだった。