視覚器官は影響を受けやすい

「え? ほんと?」と思われるかもしれませんが、真実です。線など存在しませんし、輪郭線も遠近法も人間がつくり出した架空のアイデアです。

その証拠に、コンピュータのグラフィック用のソフトを使えば、現実に存在しない場所をいくらでもそれらしく、三次元的な表現で描き出すことができます。表現が難しいと言われる人物もゼロからつくり出すことができるでしょう。

実際の現実世界との対応関係がなくても、架空の風景や人物をこれまでの視覚造形上の認識を活用すればいくらでもつくり出すことができます。このように、視覚認識パターンは解明され、絵画的な技法としてプログラム化されてアニメーションなどに活用されています。

これは生まれ持った視覚機能による認識とは異なる、人が成長する過程で教育された認識で、“文化的な眼”とでもいうべきものです。この架空のものを本物らしく認識してしまうメカニズムが、人間に視覚的な様々なイメージを呼び覚まし「認識の跳躍(誤謬)」をもたらしています。

ここでお伝えしたいのは、視覚器官がいかに教育されやすい器官か、また文化的な影響を受けやすい器官か、そして、だからこそイメージを自由に飛翔させることができるのかということを知っていただきたかったのです。

「なぜ、それができているのだろうか?」

私たちは普段、文化という、人間がつくり出した衣に包まれて暮らしていますが、それらを意識することはまずありません。文化は空気のように私たちを取り囲んでいるだけでなく、すでに身についているので、意識しないのです。

ただ、これはときとしてものごとを考える上では常識という壁になるのです。特に新しくものを見たり考えたりする場合は、知らず知らずのうちに常識という殻から抜け出せずにその中に留まってしまいます。

なぜなら、すでに既存の文化が刷り込まれているために、それを自分の意識から引き剥がして対象化して疑うことが困難だからです。普段から、無意識にできる行動が、かえって「なぜ、それができているのだろうか?」と疑うことを許さないからです。

こういった習慣化された文化が悪いことのように言いましたが、実際は一方的に悪いわけではなく、習慣化した常識があるからこそ、社会の中で難なく生きていくこともできます。そういった保守性がないと、人は社会の中で価値観を共有することも、社会生活をスムーズに営むこともできないのです。