16歳で父親が他界し一家の大黒柱に

16歳のとき、父親が亡くなりました。脳溢血です。私たち一家が貧しいながらも明るく元気いっぱいに暮らしてこられたのは父親のおかげです。その父親がいなくなったことは、とてもショックでした。

しかし、いつまでも悲しみに打ちひしがれているわけにはいきません。16歳にして、母と妹を養っていかなくてはならなくなったのです。山西家の生活が、一気に私の両肩にのしかかってきました。

それからは、これまで以上に仕事に励むことになりました。一つの仕事だけでは一家の暮らしはまかないきれません。いくつもの仕事を掛け持ちしました。昼間は軍需工場。そこで旋盤を使って、さまざまな機械の部品を作りました。夜は宇品港で船に荷を運ぶ港湾労働者として働きました。

そうこうするうちに私も20歳になり、徴兵検査を受けることになります。検査の前年に太平洋戦争が始まっていましたから、甲種合格になるとすぐさま召集令状が送られてきました。

召集された私は海軍に回され、大竹にあった海兵団で3カ月の訓練を受けました。そこから配属先が決められたのですが、「お前は航空母艦や」ということで、私は「飛鷹」という航空母艦に乗船するように命令されたのです。

私は機関兵としての勤務で、エンジンルームでの作業が主でした。機械を動かすことはできませんので、雑用やエンジンの掃除です。空母を動かしているのは自分たちだという誇りもあり、仕事はやりがいがありました。そして何より、海軍では三度三度の食事をきちんととれることがありがたかったです。海軍では朝から夕方まで働けばよく、食事も質・量ともに豊かです。今までの生活に比べたら雲泥の差で、「こんないいところはないな」と私は満足していました。

「くじ引き」で決まった工機学校への入学で命拾い

1943(昭和18)年の末ごろになると、アメリカの潜水艦が日本近海までやってくるようになっていました。あるとき、館山沖にいた飛鷹に三発の魚雷が打ち込まれ、大破してしまいました。

修理には半年ほどかかるということで待機していたのですが、その間に海軍の工機学校を受験することになりました。合格したのは2人だけで、そのうちの1人が私だったのです。ただ、採用は一人だけということで、くじ引きで入学者を決めることになり、私がくじに当たって工機学校に行くことになりました。

ところが、この学校に通っている間に飛鷹は修理を終え、出港してしまいました。戦局が悪化するなか飛鷹が向かった先は、マリアナ沖でした。アメリカのサイパン島上陸作戦に対抗するため、日本海軍が総力で挑んだ戦いです。

しかし、空母、戦闘機の数では圧倒的にアメリカが優勢でした。多くの空母、戦闘機が失われ、飛鷹も撃沈されて海の底に沈んでしまったのです。

私は、かろうじて命拾いをしました。もしも、工機学校に合格していなければ、間違いなく飛鷹に乗り込み、マリアナ沖に出撃していたはずです。そして、空母とともに海の藻屑となっていたことでしょう。

工機学校を卒業すると、今度は広島の大竹市にある潜水艦学校に入学することになりました。航空母艦から潜水艦の機関兵にくら替えとなったわけです。潜水艦学校で訓練を受けたのち、世界一大きな潜水艦といわれた「伊四〇〇型潜水艦」に乗るよう命じられました。

この潜水艦は一度出航すると、地球を1周半するぐらいの航続力を有していました。おまけに潜水艦内に戦闘機を3機収納したまま潜航することができたのです。