兵隊仲間の家を訪れて干し柿を仕入れた

兵隊仲間の家はうろ覚えでしたが、とにかく訪ねてみることにしました。

三良坂までは汽車で二時間かかります。彼のところは、その福山でも山の方にあり、駅から半日ほど歩いていかねばなりません。

それでも、やっと探し当てたのです。彼も復員していて、農作業をしていました。

「おお、山西!」

私は干し柿を分けてもらえないかと頼み込みました。彼は快く、できたばかりの干し柿を売ってくれたのです。

その仕入れた干し柿を持って、早速、広島駅の前で露店を開きました。といっても、戸板を置いて、その上に干し柿を並べただけの店です。

ところが、この干し柿が飛ぶように売れました。

「花嫁衣装より干し柿一つ」が大事だった

当時、口に入る物なら何でもありがたかったのですが、干し柿は旬でもあり、とても甘くできていました。当時、甘みは大変なごちそうです。

山西 義政『ゆめタウンの男 戦後ヤミ市から生まれたスーパーが年商七〇〇〇億円になるまで』(プレジデント社)

すべて売り切ったので、すぐにまた戦友の家に向かい、干し柿を分けてもらいました。

終戦直後は、とにかく物がない時代です。お金がなくても物があれば、物々交換で商売は成り立っていました。

干し柿を食べたいけれどお金がない。そこで、家にあった物を持ってきて「これと交換してくれないかね」という人がたくさんいました。「干し柿、くれんか」と配給で手に入れた地下足袋を差し出す人や、嫁入りしたときの衣装を持ってきて「替えてくれんね」という人もいました。自分の子どもがひもじい思いをしているときに、花嫁衣装よりも干し柿一つの方が大事だったのです。

こうして広島駅前のヤミ市で干し柿を売ったのが、私の戦後の商売の始まりだったのです。

山西 義政(やまにし・よしまさ)
イズミ名誉会長
1922年9月1日、広島県大竹市に生まれる。20歳で海軍に入隊し、当時世界一といわれた潜水艦「伊四〇〇型」に機関兵として乗艦。オーストラリア沖ウルシー環礁への出撃途上、西太平洋上で終戦を迎える。戦後、広島駅前のヤミ市で商売の道に進む。1950年、衣料品卸山西商店を設立。1961年、いづみ(現イズミ)を創業し、代表取締役社長に就任。同年、スーパーいづみ1号店をオープン。1993年、代表取締役会長。2002年、取締役会長。2019年5月より名誉会長。西日本各地に「ゆめタウン」などを展開し、一大流通チェーンを築く。
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