広島発の総合スーパー「ゆめタウン」は、営業利益率でイオンやイトーヨカドーを上回ることで知られる。その創業者である山西義政名誉会長(96)の半生は波乱の連続だった。極貧の少年時代から、商いの世界で頭角を現すまでを紹介しよう──。

※本稿は、『ゆめタウンの男 戦後ヤミ市から生まれたスーパーが年商七〇〇〇億円になるまで』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

野山を走り回ったわんぱくな少年時代

私の生まれは、1922(大正11)年9月1日、関東大震災のちょうど1年前です。山口県に接する広島県大竹市で生まれましたが、すぐに広島市南区宇品に転居しました。

その頃は両親と私、それに妹の4人暮らしでした。他にもきょうだいはいたようですが、生活が苦しく養子に出すなどして、私と妹だけが残ったということです。

父は大の酒好きで、収入も安定せず、暮らし向きは苦しかったです。住まいは6畳一間で風呂もなく、便所も共同という環境でした。しかし、私はそんな家庭であっても父親が大好きでしたし、家族も愛していました。

近隣は自然にあふれていて、遊び場には事欠きません。友達とともに野山を走り回り、木登りをして遊ぶなど、わんぱくな少年時代を過ごしました。ただ、母親が病弱で、妹もまだ幼かったので、子供心に自分も家計を助けなくては、という思いが募っていきました。

やがて、学校から帰ると、シジミ、アサリの行商をするようになりました。

学校が終わるとハマグリやシジミを売り歩いた

宇品という町はすぐ目の前が海で、浜は浅瀬になっていました。そこではハマグリ、アサリ、シジミが取れるのです。学校が終わると、すぐに海へ行き、ハマグリやシジミを取っては、リヤカーに積んで売り歩きました。

夕飯時にリヤカーで歩いていると、必ず買ってくれる人がいました。たいていが家庭の主婦です。そのためにも、大きな声で「シジミに~ハマグリ~、アサリ~」と売り声を出さなくてはいけません。黙ってリヤカーを引いているだけでは、誰も気づかないのです。

売り声もリズムをつけて、語呂をよくした方が耳に心地いい。リズミカルに売り声を上げていると、各家庭の主婦たちが集まってきます。そんなことをいろいろ研究し、試していました。

「シジミ~ハマグリ~、シ~ジミ~に~アサリ~」
「坊や、アサリのいいの、ある?」
「あるよ。今日はたくさん取れたから」
「じゃ、今日はアサリのお味噌汁にしようかしら」
「おばちゃん、ありがと!」