10年前の出来事を蒸し返す妻のすごい「言い分」
このように自分は被害者だと強調して、相手の謝罪やプレゼント、あるいは義務の免除を引き出すことは、家庭内では少なくないようだ。
たとえば、別の30代の男性は、妻が盆にも正月にも夫の実家に顔を出そうとしないので、困っているのだが、妻には強く言えない。
というのも、妻は、結婚後はじめて迎えた正月に夫の実家に泊まりがけで行ったときの出来事をいまだに蒸し返すからだ。「私がせっかく作って持って行ったおせち料理を、お義母さんは『悪いけど、口に合わないから』と煮直したのよ。あんなことをされて、私はものすごく傷ついた。私は被害者よ。だから、あなたの実家には行かない」と、結婚後10年以上たっても言うので、夫は困り果てている。
その背景には、夫の実家が辛党なのに対して、妻の実家は甘党という事情があるらしく、夫自身が妻の料理を甘すぎると感じることもあるようだ。だから、妻の作ったおせち料理を夫の母親が煮直した気持ちも、夫としてはわからないでもないという。
だが、そんなことを言うと、「あなたはお義母さんの肩ばかり持つ。マザコンよ!」と怒鳴られそうなので、夫は何も言わない。いや、正確には何も言えないでいるそうだ。
▼「私は被害者」と思い続ける人をフロイトは「例外者」と呼ぶ
この妻の気持ちは、同じ女性としてよくわかる。自分の作った料理を「まずい」とけなされたようなものだから、姑に拒絶反応を示すのは当然だとも思う。もっとも、だからといって10年以上も夫の実家に行かないのは、どうなのだろう。
自分は被害者だと強調することによって、夫の実家に行く義務を免除してもらおうとしているように見えなくもない。夫の実家に行くことが妻の義務か否かについては、議論が分かれるだろうが、少なくとも私の知る限り、夫の実家にはできるだけ足を向けたくないと思っている妻がほとんどだ。したがって、気の進まないことを免除してもらうための免罪符として、おせち料理にまつわるエピソードをいまだに蒸し返すのではないかと疑わざるを得ない。
もちろん、こうした利得目当てで自分が受けた被害を強調しているとは、当の本人は思っていない場合がほとんどだ。本人は、「自分はもう十分に苦しんできたし、不自由な思いをしてきたのだ、これ以上の要求は免除される権利があるはずだ」と思い込んでいる可能性が高い。
こういう人を、フロイトは「精神分析の作業で確認された二、三の性格類型」(※)の中で<例外者>と名づけている。<例外者>とは、自分には「例外」を要求する権利があるという思いが確信にまで強まっているタイプである。
もちろん、フロイトが見抜いているように、「人間が誰でも、自分はそのような『例外』だと思い込みたがること、そして他人と違う特権を認められたがるものであることには疑問の余地がない」。だから、<例外者>は、こういう思い込みが人一倍強いにすぎない。
この<例外者>が最近やたらと目につく。しかも、自分がこうむった被害や不利益を強調し、特権や義務の免除を要求するので、私は違和感を覚えずにはいられない。
※「精神分析の作業で確認された二、三の性格類型」は、ジークムント・フロイト著、中山元訳『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』(光文社古典新訳文庫)より