何かの立場から社会を論じることで心理的満足を得る

自分が社会的に強者でも弱者でも、都合のいいときに都合のいい立場から社会問題を論じることが可能な社会では、主に社会的強者の目線から問題を論じることが安心につながる。ヤングは、それ故に人々は本当に苦しんでいる弱者が発見されず、むしろ弱者が弱者をたたくことで、社会的連帯が困難になっているとも指摘している。日本で数多く生じている問題にも通底しているのではないか。

SNSが悪いというわけではないが、日本で発信される様々な怒りの背景には、上述の問題があるように思われる。怒っているというよりも、何かの立場から社会を論じることで心理的満足を得ようとする人が多くなっている、と捉えられる。

しかし「視点の自由化」は、都合の悪い他者を排除するというより、「自分が自分を排除する」、そうした心理的傾向の表れでもあるだろう。視点の自由化は、もともと自分が何をどう捉えているか、といった問いを発する前に他者の意見を採り入れてしまう。故に問題は、目の前の自分に向き合うことを放棄すること、あるいはそうでもしなければ生きていくことが困難な状況にあるのではないか。

他人をモノのように扱う人がよく批判される。だがより問題なのは「自分のモノ化」だ。怒りを表明しているようで、実は問題に関心があるのではなく、何かの立場に立つことで自らの不安を打ち消そうとする傾向が、あるのではないか。

自分のモノ化は根深い問題だ。他人の立場に立って考えることは重要だが、どういう意図で他人の立場に立つか、なぜそのような立場に立つのか。そうした自分自身の心理的問題と向き合うことなく他者の意見を内在化しているからだ。しかし、自分自身の心理に向き合うのは難しい。

SNSでの「祭り」が企業の儲けになる時代

自分のモノ化の背景について付け加えておきたい。スマートフォンやSNSの普及に並行して「アテンション・エコノミー」という言葉が注目されている。SNSを通じて常に目の前でアテンション(注目)を集めるお祭りが行われることで、人々はスマホから離れられず脊髄反射的な反応を行うが、それも含めて企業の儲けになる、というものだ。

写真=iStock.com/alexsl

自分の考えを練ろうとしても、スマホの先が常に「お祭り状態」であれば、そこから身を引き離すのは難しい。目の前の他者の声に、自分の言葉がかき消されてしまう。逆に自分をモノ(対象)として扱い、どうすれば社会で成功できるかを考えれば、必然的に(悪しき)自己啓発などにたどり着き、自己そのものが操作の対象となってしまう。自己実現という旗印のもの、仕事や美容、健康など、さまざまな意味で自分を輝かせることが求められる社会の中で、我々は逆説的にも自分自身に関わることが最も困難な時代を生きている。

とはいえ、自分自身に関わるという問い自体も曖昧だ。人は自分自身について適切に理解できるほど賢くもなければ、意志が強い存在でもない。しかし少なくとも、スマホを含めた情報技術から距離を取るなど、意志の力ではなく、環境を整えることで心に余裕を持つことはできるだろう。そしてまた、情報技術を避けるだけでなく、技術を利用することで自己との関わりを刷新するような、そのような技術が求められている。

問われた問題は重く、また簡単な解決策があるわけでもないが、こうした問題設定を理解して2018年を生きていくべきではないだろうか。

(写真=iStock.com)
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