6月、小林麻央さんと豊田真由子議員の話題が日本のテレビを席巻した。ニーズがある情報、数字が取れる情報だったのかもしれないが、静かに見逃すべきトピックを執念深く流し続けることに、正当性はあるのだろうか?

「この、ハゲーーーーーーーーーー!」「ちーがーうーだーろーーーーーーーーー!」

6月、何度も何度も繰り返しテレビで流された音声。私の耳には、それは怒声などではなく、精神のバランスを崩してしまった中年女性の叫び声として響いた。ああ、これは何らかの病の“症例”だ。彼女はそこまで追い詰められてしまったのだ。追い詰めたのが他人なのか、彼女自身なのか、それは部外者には分からないけれど。

その一方で、何度もテレビ画面に映った女性の画像があった。かつらをかぶってカメラにほほ笑む、愛らしい元女子アナウンサーのがん闘病の姿だった。

テレビは人間の姿を丸写しにすると言われるが、何を映すかは恣意的だ。同時期にテレビを飾ったその2人の女性は、まるで対照的な扱いを受けていた。どちらも、コンテンツとして需要があったからだ。“ウケた”からだ。そして彼女たちに向けて、素人も有名人も、さまざまなコメントを量産した。トンチンカンなものから的を射たものまで、それらは放送時間の尺を埋めた。

テレビで面白かったものは、ネットでも語られる。ネットの反応は、再帰的にテレビで取り上げられる。テレビとネットが相互に影響しあった結果、やがて前者を”狂女”、後者を”聖女”として、日本社会は「公式認定」するに至った。そうやって落ち着いた公式認定を覆すものは今さらいない。だが私は思う。”狂女”も”聖女”も、ともに形の違う磔(はりつけ)に遭ったのではなかったのかと。

……というわけで、余計なお世話と重々承知しつつ、今回の脳内エア会議のお題は「近年、日本社会伝統の『社会的に殺す』磔刑(たっけい)が加速した結果、今後日本のテレビ画面に映る女は”狂女”か”聖女”しかいなくなってしまうのではないか?」です。