家族的価値と、日本社会的価値が混同された「神聖化」の怖さ
とある2児の母が他界した。以前から報道されていた病状が、以前からうわさされていた通りに進行した結果だった。有名な芸能人である夫の記者会見に、メディアが殺到。彼の涙をめがけてあまたのフラッシュが焚かれた。複数の追悼番組が生放送された。だがそれは、必要だったのだろうか? 亡くなった女性の家族の中での価値と、日本社会での価値があまりにも混同されてはいなかっただろうか。
彼女が美しくて誠実で頑張り屋さんで有名人で家族思いでみんなに愛されていたのはよくわかる。メディア慣れした夫婦は、上手に自分たちの情報を出しながら、報道陣に「それ以上は踏み込むな」とけん制をした。だが有名人家庭の美しい闘病ストーリーはあまりに魅力的だったし、近いうちに終焉が予見される有名人の生命にはさまざまな臆測が飛び、ああでもないこうでもないと堂々巡りする井戸端会議はそれ自体がメディア的になり自己増殖する。
結果、誰もが赤の他人のくせにあの家庭の当事者であるかのような錯覚を起こしかねないほど家庭事情を知り、ちょっとした動向の報道に「そろそろだな」と平気で残酷なコメントをし、そして何よりも恐ろしいことに、日本社会はみんなで「彼女の他界のニュースを待った」のだ。
「みんなの期待どおりのニュース」は予定調和の快感を生み、メディアは当然の仕事として事前に準備していた追悼記事や追悼番組を出した。社会挙げて”聖女”の死を待ち、見送り、悼んだ。皮肉な、善意の「磔の刑」だ。場所が磔台か、祭壇かの違いだ。そこに疑問をさし挟むのは、美談を邪魔する醜悪な天邪鬼だとされた。