ヨーロッパを超越したイギリスという世界観

おわかりだろう。チャーチルはイギリスがヨーロッパと「緊密に結びつく」ことを欲しながら、「一メンバー」であることはありえないと考えているのである。これは掌返しではない。見解を急に変えたわけでもない。これは彼が自身の政権で掲げた政策そのものである。

チャーチルは反ヨーロッパでもなければ、本質的にヨーロッパのいかなる国家に対して敵意があるわけでもない。その逆である。彼はフランスを情熱的に愛した。おそらくイギリスが生んだ最もおおっぴらに親フランス的な首相である。彼にはヨーロッパを超越したイギリスという世界観があったというだけの話だ。それをもってイギリスは世界に立ち向かい続けたのである。

この世界観については、チャーチルは政治人生を通じて際立って一貫していた。彼は1930年に書いた記事を、三つのベン図(集合の図式)が重なる部分としてイギリスのビジョンを提示することで終えている。「イギリスは、等しい正当性を持って、三つの役割を同時に果たすことを主張することができる。すなわちヨーロッパの一国、大英帝国の盟主、そして英語圏の一員の三つである。イギリスの役割はこのうちのどれかということではなく、これらすべてである……」。

大英帝国はとうの昔に消滅してしまったが、こうした緩い国際主義は今日の世界情勢においてかつてないほどの意味を持つようになっている。世界のGDPにおけるEUのシェアが着実に低下を続け、アメリカが依然として最大の経済大国の座にとどまり、旧英連邦諸国の成長が目覚ましい今日の世界においても、チャーチルの描いたベン図はイギリスの位置と役割を見るときの参考になる。

チャーチルが1945年の総選挙に勝っていたら、シューマンプランにどういう対応をしたかを知ることは難しい。ただ一つだけ確かなことがある。彼はけっして労働党のような誤ちは犯さなかっただろうということだ。彼はきっと統合ヨーロッパと交渉しただろう。恐らく論争で発揮するすさまじいエネルギーの力で、他のヨーロッパ諸国を政府間アプローチに向かうよう説得しただろう。それによって、民主的に選ばれた各国政府の決定が、日常的に「超国家的」機関によって覆されるという、今日に至るまで非常に困難な、場合によっては腹立たしい考え方を捨てたことだったろう。

もしチャーチルが1948年の時点で政権にいたら、もし彼が交渉のテーブルにつくことができていたなら、もしチャーチル的な要素がこうしたきわめて初期段階のヨーロッパとの交渉でも作用していたとしたら、EUは今日とは違ったモデルの、すなわちもっとアングロサクソン的で、より民主的な存在になっていたかもしれない。

1950年ではおそらく遅すぎた。そう、労働党は船に乗り遅れたのだ。あれは間違いだった。しかし本当のところは、モネもシューマンも実際にはイギリスを交渉のテーブルには呼びたくなかったのだ。呼んでいたらイギリス政府にこの提案の是非について熟考する時間を与えることになり、あのような猛スピードで会談を召集することができず、したがって超国家主義を加盟の条件にする合意に達することもできなかっただろう。

チャーチルは1950年代にヨーロッパで進展しつつあったことを見て、とくに怨恨、後悔、疎外といった感情を覚えることはなかった。反対に、彼は統一市場への歩みを父親のようなプライドをもって眺めていたのである。これらの国々をまとめ、けっして再び戦争をすることができないように分裂不可能に縛り上げるというのが彼の考えだった。それが素晴らしい成功だったことを誰が否定できるだろうか。

NATO(チャーチルが共同創設者としての功績を主張できるもう一つの組織)とともに、欧州共同体(現在は欧州連合)は、ローマ帝国の両アントニヌス帝時代以来の平和と繁栄の時代をヨーロッパに再びもたらした。だからといって制度的な不適切さや超国家主義の行き過ぎを否定するつもりはない。また、チャーチルが1950年にはっきり予見していた通り、イギリスのような古く誇り高い民主主義国家をこの「超国家的」政府に組み入れることによって引き起こされた緊張を過小評価するものでもない。