大型船との出逢い、就職につながる

1954年11月、鹿児島県谷山市(現・鹿児島市)で生まれる。教師だった父母、兄と妹の5人家族。地元の小学校から私立ラ・サール学園へ進み、高校まで男子校。運動が好きで、中学時代からバスケット部。主将も務めた。

高校時代に、鹿児島港に2代目の南極観測船「ふじ」が寄港し、船内が公開された。友人とみにいくと、極地向けの砕氷艦で、ヘリコプターを3機搭載。全長100メートル、全幅22メートルと大きく、なぜかわくわくした。

船上の自衛官が「よくきたね」と言って、甲板などの公開ルート以外に、エンジンルーム、乗組員の食堂や部屋もみせてくれた。艦船の壮大な印象が強く残り、東大理科I類へ進み、船舶工学科で船の設計を学ぶ契機にもなる。

大学3年の実習では、長崎の造船所へいき、40万トンという当時では珍しい大型タンカーの建造に加わった。多様な機能を持つ巨大なシステムのかたまりと遭遇して、感動する。今度は、この経験が工場を設計して動かす、生産のシステムを見直して効率化を進める、という道へつながった。

卒業を控えた時期、造船不況が始まり、30数人いた船舶工学科の同期のうち、造船分野に就職したのは数人だけ。選んだヤマハ発動機は、漁業やレジャー向けの小型船で国内首位にあり、船舶工学に縁もあったが、二輪車で海外進出をしていると知り、海外事業に挑戦したいとの希望が芽生える。

78年4月に入社し、希望通り海外生産部に配属され、ブラジルとナイジェリアを担当する。3年目に工場を建設したナイジェリアへ出張し、初めて海外へ出た。

82年夏から2年間、米フィラデルフィア州立ペンシルバニア大の大学院で、経営工学を学ぶ。何よりも「アメリカという国をみたい」との思いが実現したのが、うれしかった。帰国して海外生産部企画課に2年間いた後、冒頭の米国生産プロジェクトに参加した。

国内外の工場長や生産本部長を経て、2010年3月に社長に就任。会社は、リーマンショックによる世界的な需要減と超円高で深手を負い、それまでの約1年、生産本部長のまま構造改革プロジェクトチームのリーダーも務めた。

新商品の開発を中断し、内外の生産拠点を再編した。生産本部長として世界中の生産拠点を回っていたから、非効率な点や再編・閉鎖の候補地は、すぐにイメージが浮かぶ。国内は12工場・25ユニットから6工場・13ユニットへ半減し、欧州も4つあった工場を2つに減らし、22あった販売会社を1つに集約する。日米の事業で「選択と集中」も進めた。

でも、後ろ向きのことばかりでは、社内は沈んでしまう。社長になって、社員たちに「人は、仕事に挑戦するときに輝く。主役になって、輝いてほしい。みなさんが挑戦できる場を、たくさんつくりたい」と繰り返した。会社をどんな姿にしたいのか、現場主義や顧客志向などを「わかりやすく」表した5つの目標も掲げた。

その第一に、「モノづくりで輝き、存在感を発揮し続ける会社でありたい」とした。長年の海外勤務で得た発想と社業への自信。それを「志」として、表現した。

ヤマハ発動機社長 柳 弘之
1954年、鹿児島県生まれ。78年東京大学工学部卒業、ヤマハ発動機入社。2000年森町工場長兼早出工場長。03年MBK(仏)社長。04年YMI社長。07年執行役員、09年上席執行役員生産本部長、10年より現職。
(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)
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