米工場立ち上げで「わかりやすく」
1990年代半ば、米ロサンゼルスの北米統括会社・YMUSの経営企画担当副社長として、四輪バギー車の生産計画をまとめた。85年9月の「プラザ合意」以来の円高・ドル安は、小休止や反転を挟みながらも、続いていた。40代を迎えるころだった。
ヤマハ発動機 社長 柳 弘之
円高で採算が悪化した対米輸出に代わり、米国での初の生産が計画されたのは86年。本社のノースアメリカ準備室に呼ばれ、4人のチームで、工場の進出地や生産する製品の選定を進めた。当時、主力の二輪車は、海外でもつくっていた。ただ、競争が激しく、米国での生産の難易度は高い。そこで、第1弾の生産には、部品の現地調達が容易でモデルチェンジの頻度も少なく、北米に世界最大の市場を持つゴルフカーと水上バイク「マリンジェット」を選ぶ。87年8月に始まった工場の立ち上げでは、希望して、製造子会社・YMMCの生産管理課長に就く。
ここから先は有料会員限定です。
登録すると今すぐ全文と関連記事が読めます。
(最初の7日間無料・無料期間内はいつでも解約可)
プレジデントオンライン有料会員の4つの特典
- 広告非表示で快適な閲覧
- 雑誌『プレジデント』が最新号から読み放題
- ビジネスに役立つ学びの動画が見放題
- 会員限定オンラインイベント
