ヤマハ発動機の柳弘之社長は、社長就任まで二輪の免許を持っていなかった。なぜ夜間に教習所へ通ってまで自らがバイクに乗る姿を見せたかったのか――。経済ノンフィクション「企業の活路 ヤマハ発動機」。前後編のうち前編をお届けする。

「バイクに乗れないのはやっぱり恥ずかしい」

静岡県磐田市にあるヤマハ発動機の本社から車で約20分、隣の袋井市に同社のテストコースがある。彼らが「袋井」と呼ぶその試験場は1周約6キロメートル。鈴鹿サーキットを模した立体交差を備えるレイアウトで、1969年に竣工した歴史あるコースだ。

満開だった桜が散り、茶畑で一番茶の摘採が始まろうとしていた昨年の4月下旬。同社の開発エンジニアや部長クラスの社員は、オイルの匂いが漂うこの試験場のピットからホームストレートを一様に見つめていた。社長の柳弘之による二輪車の試乗が行われていたからである。

試作車に乗る、ヤマハ発動機の柳 弘之社長。

その日、午後から「袋井」にやって来た彼は、2時間半をかけて10台以上のマシンに乗った。試乗のラインアップは、小型排気量のスクーター、開発中の中型車機、フロント二輪の三輪バイク「トリシティ」、さらにはいくつかのスポーツモデルや1900ccの「XV」にまで及んだ。以前はバイクレースの最高峰・MotoGP用に造られた「M1」を試乗したこともある。

柳の着る革ツナギは浜松市の世界的ツナギメーカー「クシタニ」製で、肩と腕に白と赤のライン、背中には「柳」と大きな赤い刺繍が施してあった。

1~2周を走り終えるごとに彼は開発者に簡単なコメントを伝え、次々とバイクを乗り換えてはコースに出ていく。その姿に接する社員たちは、様々な思いを胸に抱いた。たとえば技術本部長の島本誠は「やはり社長が乗るとモチベーションが上がる」と感じ、20代の頃からバイクレースを趣味とする三輪バイク「トリシティ」の開発責任者・海江田隆は「俺のほうがぜんぜん速いな」と思い、柳の担当秘書は「転んで怪我をしたら大変だ」と気を揉む、というように。

だが、そこにいる全員の胸に共通していたのは、それがヤマハ発動機の「いま」を象徴する一つの光景だということだった。1955年に日本楽器製造(現・ヤマハ)から独立した同社の社史において、社のトップが製品を実際に試乗するのは、初代社長の川上源一を除けば、ほとんど初めてのことだったからだ。