柳は2010年3月に社長へ就任するまで、二輪の免許を持っていなかった。同社から十数キロメートル離れた掛川市にテクニカルセンターという自前の教習所があり、社長になったばかりの彼は日中の仕事を終えると、地元の若者たちに混ざって夜間の教習を受けた。
しかし、なぜ柳は社長就任後に教習所へ通ってまで、自らがバイクに乗る姿を見せなければならなかったのだろうか。
「私が乗ったからといって、なんということもないのですが――」
鹿児島出身の柳は、少し九州の方言を感じさせる朴訥な口調で言う。
「売り上げの6割が二輪車である会社の社長ですから、バイクに乗れないというのはやっぱり恥ずかしいと思ったんです。それに現地、現場、現物の『三現』を重視するのが、日本的経営の一番の強みだと僕は思っている。だから、開発途上の製品に乗ったり、現場の若い人たちと定期的に話す機会をつくったりすることは、ずっと意識的に続けてきました。やっぱり現場に入っていくと、彼らもいろんな意見や質問をフランクにしてくれるから」
創業以来で最悪の赤字
彼が社長に就任した2010年、ヤマハ発動機は創業以来の危機的状況にあった。
08年のリーマン・ショックの影響を受け、09年に同社は創業以来最大となる2000億円以上の赤字を計上。主要市場の一つである北米では在庫が飽和し、四輪バギーの事故によるPL訴訟も抱えていた。そのなかで社長になった柳は当時、「業績の立て直しのために2つのテーマを改革の中心に据えた」と振り返る。
1つ目は国内外の工場の集約化や製品のプラットフォーム化を進め、コストを下げる「損益分岐点型経営」を徹底すること、2つ目は「ものづくりにおける『ヤマハらしさ』をあらためて再定義し、存在感を発揮できる製品開発の種をまくこと」――である。
「とにかく物事をシンプルに示すのが僕のやり方なんです」
1978年にヤマハ発動機に入社した柳は、20代のときのナイジェリア駐在を振り出しに、キャリアのうちの約18年間を海外で過ごしてきた。中でも原点となっているのは30年前、米国アトランタで物流と生産管理に携わった経験だ。