深い覚悟なくして勇気は湧かず
もちろん松陰は、自分自身の学問を深めるためにも徹底した読書に打ち込んだ。入牢して初めての新年を迎えたとき、兄・梅太郎宛の賀状に「正月早々から多忙多忙、頼山陽の『日本外史』を読まねばならないし、詩もつくりたい」と書き送っている。
仮釈放になると、萩に戻り松下村塾で藩の下級武士たちを教え始める。そこには「万巻(まんがん)の書を読むに非ざるよりは、いずくんぞ千秋(せんしゅう)の人たるを得ん。一己(いっこ)の労を軽んずるに非ざるよりはいずくんぞ兆民(ちょうみん)の安きを致すを得ん」という言葉が掲げられた。これこそが、まさに松陰の学びの姿勢そのものであると、リーダーシップ・行動心理学の研究者で、東洋思想にも造詣が深い池田貴将氏は指摘する。
「多くの書物を読まなければ、名を残す人物にはなれない。自分の労苦を何とも思わないようでなければ、多くの人々を幸せにすることはできないという意味だと考えています。松陰には市井の人々のために学ぶという目標があったのです」
翻ってみると、それは自分と弟子が、日本を変える人物になるとの“志”だったといってもいい。松下村塾にあって、松陰は弟子たちに対等な立場で向かい合った。自分は師ではない。一緒に学問に励んでいく友であると強調していたのだ。
いまも山口県萩市の松陰神社には、修復された木造平屋の塾が残っているが、部屋は10畳と8畳の2間しかない。しかも、松陰がそこで教えた期間はわずか2年半。だが、松下村塾からは、高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文や山縣有朋といった、幕末、明治の逸材が世に羽ばたいた。残念ながら、高杉、久坂は早逝してしまうが、幕末の動乱を生き延びた伊藤、山縣は後に総理にまで登り詰める。
「人材を育てる教育の源泉は松陰の信念にあったのだ」と童門氏は見ている。まず、目的を同じくする者たちで長州藩を改革しよう。その改革によって日本を変革できるという強烈な思いだったというのだ。
「松陰のすさまじい行動力は、やらないで後悔するより、やって後悔しろということの表れでしょう。よく『断じて行えば鬼神も之を避く』といいますが、その実行力、その裏付けとなる偽りのない誠の心である“赤誠”が、門人たちに伝わったのです」(童門氏)