吉田松陰はなぜ奈落から戻ったか

童門 冬二(どうもん・ふゆじ) 1927年生まれ。東京都庁に長く勤務し、知事秘書、広報室長などを歴任後、79年に退職。本格的な作家活動に入る。ベストセラー『上杉鷹山』をはじめ組織と人間の関わりを歴史のなかに見出す手法の小説や評論多数。

組織の表舞台から一度は完全に消えたものの、捲土重来を果たす人物は、日本の歴史上にたくさん存在する。

東京都庁・政策室長などを歴任した作家・童門冬二さんがその代表としてあげるのは、安倍首相も尊敬しているという、吉田松陰である。松下村塾をつくった、明治維新の精神的な指導者・理論家として知られるが、大きな挫折を経験している。

「吉田は、開国を迫るアメリカ本国の事情を自分の目で確かめるため、ペリーが日米和親条約を締結しようと来日したときに自ら上船(密航)を申し出ます。当時、国内には攘夷論者が多かったのですが、外国を排斥するには、まず相手を知らなくてはならないという考えを吉田は持っていたのです。しかし、ペリーは吉田の意気に感心したのですが、開国の交渉中なので、開国後、自分が招待するから、と言って拒否。結果的に、吉田は牢屋敷に送られてしまいます」

日本政府は吉田の行動を、私利私欲ではなく志あってのものと大目に見ようとしたが、吉田の地元・長州藩は「藩の名を汚すとんでもない罪を犯した」と判断したのだ。

奈落の底へ――。だが、吉田は、へこたれない。獄中にいた3年間で1500冊の本を読むだけでなく、自分と同じように牢屋に収容された罪人たちを教育・更生する施設に変えようとするのだ。

「人には賢愚の差はあるけれど、一つや二つは優れた才能を持っている。それを育てれば一人前の人間になれる。吉田はそうした信念を持って、俳句・和歌などを得意とする入牢者を活用して、つらい牢を楽しい場所に変えてしまいます。そのことで、獄中の雰囲気は絶望的なものから一気にモラール(士気・意欲)が高まったのです。こうした取り組みはその後、藩全体に浸透していきました」

釈放された吉田は松下村塾をつくり、ご存じの通り、その塾からは伊藤博文、高杉晋作、山県有朋といった維新実現の才能を多数輩出している。

童門さんは次のように語るのだ。

「投獄されたら、普通の人なら落ち込んで頭を抱えるでしょう。僻んだり、誰かを恨んだりするに違いありません。でも、吉田は自らの不幸な“事件”を逆用して、自分は死んでも後輩を育てようと決心したのです。『一粒の麦が死なずに落ちていれば、それはあくまでもただ一粒の麦だ。しかし、一粒の麦が死んで肥やしになれば多くの麦が育つ』。吉田にはそうした思想哲学があり、それを実践したことによって、自らも敗者復活できたのだと思います」