夫が亡くなったのは「すごいタイミング」だった
(前編から続く)
農林水産大臣賞の受賞、新工場のオープンと20%の生産量アップ――。順調な成長を遂げていた野田米菓に、思いもよらぬ試練が訪れる。会社の大黒柱であった健一さんが、急逝したのだ。
2015年春、新工場1周年祭を目前に控えた頃に見つかった、健一さんの手首のわずかな腫れが、すべてのはじまりだった。当初はリウマチを疑ったが、4月の血液検査の結果は“グレー”。9月に再検査の予約を入れた。
しかし8月、健一さんは背中の痛みを訴え、整形外科で血中酸素を測ると危険な数値を示した。すぐに救急車で運ばれて検査した結果、間質性肺炎の診断が下される。間質性肺炎とは、肺を支える役割を担う間質に炎症が生じる疾患だ。炎症が進むと肺全体が固くなって縮み、肺の機能を失う。健一さんは4種類の点滴を試みるも、診断からわずか13日間後に静かに息を引き取った。享年64歳、最後の3日間は意識不明だった。
「お盆休みの間にすべてを済ませることができて。本当に、すごいタイミングで」。
恵子さんはそう言った後、唇をキュッと結ぶ。皮肉にも、このタイミングは会社にとって最良だった。工場は休みで、取引先への影響もなかったのだ。
恵子さんが「ザ・昭和の男」と評する夫だったが、その人望は厚かった。「会うといつもニコニコしていて」「健一さんみたいな気遣いできる人はいない」。商売仲間や地域の人からあがった健一さんを惜しむ声が、その証しだった。
「なんかするか、せんかを決めやんとあかん」
しかし、夫を偲んでいられる期間は短く、現実は容赦なく襲いかかってきた。新工場建設に伴う多額の借入金、返済計画、資金繰り。姉3人も高齢であり、後継は必然的に恵子さんしかいない。これまで健一さんが一手に引き受けていた経営の決断のすべてが、恵子さんの肩にのしかかる。
「私は数字を見て売り上げや利益を考えるのが一番嫌いで。重大な決断せなあかんと思うと、『もうえぇわ』って投げやりになりかけました。でも、決断せんと仕方ない。とりあえず、『なんかするか、せんかを決めやんとあかん』と」。その決意を支えたのは、周囲の存在だった。
工場では変わらず従業員の「作ってみたい」の声が飛び交う。店舗には、温かな笑顔と会話が広がる。取引先や地元の経営者たちからは「困ったことがあったら言うてな」「いつでも相談に乗るからな」と励ましの言葉が寄せられた。
2015年夏、お盆が明けると同時に、56歳の恵子さんは経営者として腹を括った。