野田米菓(三重県津市)の代表取締役、野田恵子さん(65)は31歳の時、結婚を機に同社に加わり、製造や経営に関わるほとんどを担って同社を成長させてきた。しかし2015年、夫の健一さんが急逝。56歳で経営を引き継ぐことになった。フリーライターのみつはらまりこさんがリポートする――。(後編/全2回)
野田米菓(三重県津市)の代表取締役、野田恵子さん
筆者撮影
野田米菓(三重県津市)の代表取締役、野田恵子さん

夫が亡くなったのは「すごいタイミング」だった

前編から続く)

農林水産大臣賞の受賞、新工場のオープンと20%の生産量アップ――。順調な成長を遂げていた野田米菓に、思いもよらぬ試練が訪れる。会社の大黒柱であった健一さんが、急逝したのだ。

2015年春、新工場1周年祭を目前に控えた頃に見つかった、健一さんの手首のわずかな腫れが、すべてのはじまりだった。当初はリウマチを疑ったが、4月の血液検査の結果は“グレー”。9月に再検査の予約を入れた。

しかし8月、健一さんは背中の痛みを訴え、整形外科で血中酸素を測ると危険な数値を示した。すぐに救急車で運ばれて検査した結果、間質性肺炎の診断が下される。間質性肺炎とは、肺を支える役割を担う間質に炎症が生じる疾患だ。炎症が進むと肺全体が固くなって縮み、肺の機能を失う。健一さんは4種類の点滴を試みるも、診断からわずか13日間後に静かに息を引き取った。享年64歳、最後の3日間は意識不明だった。

「お盆休みの間にすべてを済ませることができて。本当に、すごいタイミングで」。

恵子さんはそう言った後、唇をキュッと結ぶ。皮肉にも、このタイミングは会社にとって最良だった。工場は休みで、取引先への影響もなかったのだ。

恵子さんが「ザ・昭和の男」と評する夫だったが、その人望は厚かった。「会うといつもニコニコしていて」「健一さんみたいな気遣いできる人はいない」。商売仲間や地域の人からあがった健一さんを惜しむ声が、その証しだった。

「なんかするか、せんかを決めやんとあかん」

しかし、夫を偲んでいられる期間は短く、現実は容赦なく襲いかかってきた。新工場建設に伴う多額の借入金、返済計画、資金繰り。姉3人も高齢であり、後継は必然的に恵子さんしかいない。これまで健一さんが一手に引き受けていた経営の決断のすべてが、恵子さんの肩にのしかかる。

「私は数字を見て売り上げや利益を考えるのが一番嫌いで。重大な決断せなあかんと思うと、『もうえぇわ』って投げやりになりかけました。でも、決断せんと仕方ない。とりあえず、『なんかするか、せんかを決めやんとあかん』と」。その決意を支えたのは、周囲の存在だった。

工場では変わらず従業員の「作ってみたい」の声が飛び交う。店舗には、温かな笑顔と会話が広がる。取引先や地元の経営者たちからは「困ったことがあったら言うてな」「いつでも相談に乗るからな」と励ましの言葉が寄せられた。

2015年夏、お盆が明けると同時に、56歳の恵子さんは経営者として腹を括った。

提供=野田米菓
直営店からの景色。「精神的に支えてくれている人がたくさんいたから、やってこれたんやと思います」と、恵子さんは言う