――凡試合をしていることにさえ気づかない指導者、選手、球団オーナーや経営陣を叱る野村さんだが、高卒テスト生として始まったその野球人生は、プロならではの「気づき」の積み重ねだった。最初の気づきは10代のときに訪れた。

「7人いたテスト入団組のうち4人が捕手。入団してすぐにわかったのは、私たちは投球練習の球を受けるためのブルペンキャッチャーで、2軍の試合にさえ出してはもらえないということでした。合宿所の個室もひどかった。物置だった窓のない部屋に畳を3枚敷いただけ。それでも部屋代と食費で月に3000円かかる。故郷の母親に毎月1000円仕送りをして、これを7000円の月給から引くと残りは3000円です。飯と味噌汁と漬物は喰い放題だが、唯一の栄養源とも言える卵は別料金。それでも、元気つけなくちゃホームランを打てないから卵を頼むわけだけれど、それだけのことにそろばんを弾かなくちゃならなかった。でも私はこの頃、契約で入った選手もテスト生もグラウンドでやることは同じ、ならばグラウンド以外でやることが勝敗をわけると考えた」

――素振り、筋トレに夜の時間を費やし、自分を虐め抜いたという。

「バットだけはよう振ったな。日本一振ったと思ってる。素振りはつまらないし、回数を基準にすると続かない。私がこの単純作業を継続できたのは、振ったときのブッという振幅音に興味を持ったから。ミートポイントで力を爆発させるようなスイングができたときは、この音が短い。そして、この短い音を出すためには、力を抜いていないとダメだということに気がついた。これがおもしろくて、1時間、2時間はすぐに過ぎていきました」