豊臣秀吉政権下では五大老の一人だった前田利家を祖とする加賀藩前田家。なぜこの家だけが江戸時代で百万石もの石高を誇ったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「そこには歴代当主たちの徳川家との良好な関係を築くための配慮と遠慮があった」という――。
金沢城
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秀吉恩顧の前田家が百万石大名になったワケ

江戸時代の大名の石高ランキングで、2位以下を引き離してダントツだったのは、加賀藩前田家である。「加賀百万石」として知られるとおり、唯一、100万の大台を超えて102.5万石を誇った。

その領地は加賀(石川県南半部)、能登(石川県北部)、越中(富山県)の一円におよび、3代利常の時代の寛永16年(1639)に分藩した富山10万石、大聖寺7万石を加えれば、実質的には119万石以上にもなった。

ちなみにその下は、2位が薩摩藩島津家の72.9万石、3位が仙台藩伊達家の62.6万石、4位が尾張藩徳川家の61.9万石、5位が紀州藩徳川家の55.5万石、6位が熊本藩細川家の54万石と続き、50万石を超えたのはこの6つの家だけだった(しかも2つは将軍家の親戚である)。

別格なのは石高だけではなかった。外様大名なのに松平姓および三つ葉葵の紋が下賜され、前田利家から数えて4代の光高以降は徳川将軍の偏諱へんき、つまり実名の一字があたえられた。光高は家光から、5代綱紀は家綱から、6代吉徳は綱吉から、7代宗辰は吉宗から、8代重煕、9代重靖、10代重教は家重から、11代治脩は家治から、12代斉広、13代斉泰は家斉から、14代慶寧は家慶から。幕末まで見事に全員が、将軍の偏諱を賜っている。

そればかりか極官、つまり就くことができる最高の官位は従三位参議で、将軍家の一門を除けば唯一、公卿になれる大名だった。このため江戸城本丸御殿内の伺候席しこうせきも、ほかの外様大名は国持大名でも大広間なのに、前田家だけは御三家等と同じ大廊下だった。このように、なにからなにまで別格の扱いだったのである。

では、前田家はどうやって、これほど特別な地位を築いたのだろうか。