江戸城、大坂城を手掛けた築城の名手
徳川幕府の拠点となった江戸城(東京都千代田区)。その縄張り、すなわち設計図の製作を家康みずから依頼した武将。大坂夏の陣後、大坂城(大阪市中央区)を徳川の手で再築する際にも、2代将軍秀忠が縄張りをまかせ、石垣の高さも堀の規模も秀吉が造った城の2倍にするように指示した武将。それは同一人物である。
天下をとった徳川による城のうちでも、もっとも重要な2つの設計を任されるくらいだから、同じく「築城の名手」といっても並みのレベルではないことがわかる。その武将とは藤堂高虎であった。
高虎は武将の生まれではない。近江国藤堂村(滋賀県甲良町)の土豪の次男で、浅井長政を皮切りに、主君を次々と換えていたが、羽柴秀吉の弟で来年のNHK大河ドラマの主人公である秀長に仕えてから頭角を現した。天正13年(1585)の紀州征伐後に大名となり、秀長の死後は養子の秀保に仕え、朝鮮出兵(文禄の役)には若い秀保の名代として出兵した。
文禄4年(1595)に秀保が早世すると、出家して高野山に隠棲してしまうが、それまでにもすでに和歌山城(和歌山市)、赤木城(三重県熊野市)などを築いていた。
とくに天正17年(1589)、数え34歳のときに築いた赤木城は、総石垣で主郭はほぼ正方形、虎口(城の出入口)は枡形(四角い空間の2辺それぞれに門を、まっすぐ進めないようにずらしてもうけた虎口)で、高虎の城づくりの原点といえる。
革命を起こしたといえる城
その後、才能を惜しんだ秀吉の命令で還俗し、この年、伊予国板島(愛媛県宇和島市)に7万石をあたえられた。板島城(のちの宇和島城)の築城に取りかかり、五角形で北と西は海に面した縄張りを実現し、また、ふたたび朝鮮に出兵すると(慶長の役)、現地に港を見下ろす順天城を築くなど、築城技術を磨いた。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では東軍に加わり、戦後、伊予半国20万石の大大名に取り立てられてからは、自身の居城に加え、家康らの命による築城を数多く重ねていく。
まず、自身の居城としては、あらたに拠点にするために今治城(愛媛県今治市)を築いたが、これはのちの城の姿を大きく変えるほど革新的な城だった。
海に面した平地に築かれたこの城が画期的だったのは、第一に、縄張りが非常にシンプルなことだった。本丸はほぼ正方形で、そこに3つの曲輪が加わった内郭全体としても正方形に近く、これを幅が50~70メートルもある広大な水堀で囲んだ。さらにその三方を中堀で、その外側も三方を外堀で囲んだ(もう一方は海だった)。

